見出し画像

こころの素粒子をさがして

第一話: ここらで“ひと息”

話はんぶん/うしろ半分〔S.Kaneko〕


こうして、ひと息ひと息のなかに、私が存在することができている。ひと息ひと息がとりもなおさず私である。それを想うだけで、呼吸、身体、心、存在感覚が一体となり、“それ以上でもそれ以下でもない”体験となる。

 息をするのも面倒だとは思わないし、呼吸を効率よくコントロールしたいとも思わないのだが、人は呼吸を使って「何かをしよう」としがちだ。呼吸は常に“そこに私が生きている”証として環境と交流する小さな運動であるのにも関わらず、それを「使役」しようとするのだ。

 臨床心理学やカウンセリングの領域ではよく〈呼吸法〉なるものを使う。ストレスマネジメントやストレス低減法で、呼吸法を用いる。リラクセーションの方法として行われる腹式呼吸法や、呼吸に意識を向けることで、意識の流れに気づいていく瞑想法などがある。その方法や重点が置かれるポイントは、腹式呼吸法と瞑想法では結構違うのだが、いずれにしても、ゆったりと深い呼吸をすることで身体の力が抜けたり、気持の面でも落ち着きを取り戻したりすることは、ある程度共通している。「身体と心はつながっている」ということの学習にもなる。これはこれで意味のある活動であるし、私もワークとして使うことがある。

 そこでよく言われるのは〈心身相関〉である。身体が変化すれば、心と呼んでいるものも変化したように思えるし、心持ちが変わってくれば、身体のどこかにもその影響が現れる。呼吸が早いと落ち着かない気持ちになっているし、ゆっくりと深い呼吸は地に足のついた安心感をもたらしてくれる。

しかしどこかに違和感が残るのだ。生まれてこの方、ひと息ひと息、ずっと続いている呼吸を、あたかも目新しい方法のようにして命名したり、研修会に導入したり、効果を確認したりすることが不思議なことだと思えてくる。何でもかんでも「活用」し「利用」し、効果的か(エビデンスがあるか)どうかを確認し、何かの目的のために「使用」することを、ここらでやめて、“ひと息ついてみる”のはどうだろう? 

呼吸は呼吸であり、呼吸法でもリラクセーション法でもないのだ。そして呼吸は私の存在感覚であり、身体運動であるのだ。そして「息を合わせる」「息づかい」という言葉に纏われているように、息(呼吸)は私たちが心と呼んでいるものそのものでもあるのだ。

 私はずっと、呼吸をしている。あなたもずっと、呼吸をしている。そこに、私の心と身体と私の存在がある。そこに、あなたの心も身体も存在もある。

ひこうき雲は線を描こうという意思などなく、描かれる存在

~ こだちのアテンド室より ~

新連載「第一話」うしろ半分 いかがでしたでしょうか。

私たちは気がつけば「効果のあること」ばかりに
傾きがちな世の中に生きています。
確かに、緊張している時や、何かに集中しすぎているときは
勝手に息を停めているように感じることがあります。
体感的に気づくと、深い呼吸ができるようになったりしますね。

「呼吸」にまで効果を考えることを
ちょっと横に置いておいても良い時期にきているかもしれません。

ひこうき雲は意識しなくても、大きな空に描かれていきます。
そのままの存在や偶然をたのしむ心を
私たち人間は持っているのですよね、きっと。


いいなと思ったら応援しよう!