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無力感

ひたすらに自身の無力を感じ、そして同時にその無力を振り払うように自分が出来ることに向かう日々です。

戦争が起きました。繰り返され、繰り返され、なんとか反省し、打開策を見いだし、次第に薄氷を踏むようになっていった冷戦後の国際秩序が、おそらく崩壊しているのだと思います。

無力感しかありません。
私はエネルギー会社にいます。人々の日々の生活を当たり前に成り立たせている電気を作る会社です。でも、私はそこに1ミリも携わっていないことに、今更ながら気づきます。

私は社内広報を担い、協賛施策を担い、会社を内外のステークホルダーに伝えるミッションはあれども、燃料を調達できるわけでも、輸送できるわけでも、発電所を運転できるわけでもありません。
リスクを分析して資料をまとめることも、状況に即したメディア向け資料を作ることも、伝えることもできません。

無力感しかありません。
広報として社会人をスタートし、3年目が終わろうとしています。それでも、この危機に「何か行動できる」自分ではない。その事実に押しつぶされそうです。いえ、少し押しつぶされているのかもしれません。

エネルギー会社の一員になる覚悟が出来ていなかった自分に気づきます。全く、全く意識すら出来ていなかった。戦争がリアルに起こって初めて、やっと、遅すぎる自覚をしました。
馬鹿だなと。なんて浅はかなんだろうと、久しぶりに後悔しています。

無力感しかありません。
ジャーナリズムを学びました。学術的にメディアを研究し、実践的なスキルの習得に務めました。
アカデミックと実社会の交差点を見いだせる人物になりたい、とそう思って進路を決めました。

でも、何もできていません。
SNSにはフェイクがあふれています。それを近しい人にすら伝えることができない。ロシアは悪でウクライナは善であるというメディアの言説に疑いは持てても、それを他人に堂々と話せない。
日本の殆どの報道機関が海外のニュースをソースとして報道していることの是非について、自信をもって意見できません。

無力感しかありません。
ジャーナリズムを専門として学んだのに、それを誇りに思っているのに、いざ危機がおきても自身の専門知と結びつけた発信一つ、まともに出来ないのです。私が誇りにしてきたことは、こんなにも空っぽだったのかと。空虚な気持ちを抱えきれずにいます。

結局、中途半端なんです。交差点と、それっぽい言葉を使って社会人になりました。広報という、これまたそれっぽい職種にたまたまついて、ああ私は自分が想定した道を歩んで行けていると、言い聞かせているだけです。知っています。学術を極めることからは逃げ、なんとなくぬるま湯につかっているだけだから、社会でも結局なにもできていないのです。


それでも、立ち向かうしかありません。
もう落ち込みました。充分すぎるほど落ち込みました。落ち込んでいようが、充実感に満ち満ちていようが、変わらず朝はきて仕事をしなければなりません。
その間も、世界のどこかで戦争は起きていて、安全地帯では「それは侵略ではなく侵攻だ」なんて、どこの誰も救えない議論が交わされます。

私は私に課された仕事をこなすしかなく、それがたとえウクライナの人にも、電気を当たり前に使っている消費者の方にとっても全く意味のないようなことに思えても、今私にしか出来ないことをやっている、と。
そう思って、自分の中の無力感に立ち向かうしかないのです。

無力感に支配されないように、そして少しずつ、ほんの些細なことであっても勝てる要素を見いだせるように。私なりの考えを、しっかり持てるように。
自分自身に宣戦布告しないといけない。決して、自分が作り出す無力感に負けないと。引けぬ戦いを、自分から仕掛けないといけない。今は、ただ。そう強く言い聞かせています。

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