現世利益か、世界平和か。それが問題だ
現世利益って、いやしいの?
コレ。ちょこっと宗教学び始めると、ぶちあたる壁だったりするよね?
商売繁盛とか合格祈願って、「祈ってんの、じぶんのことだけじゃん」。
「視野狭いよね~」
そして、
世界平和を願うほうが徳が高い
なぁんて、思ってしまいがち。
私も、そう思ってたこともあった。
合格祈願するよりは、
って願うほうが、後腐れなくていいかなと思ったり。
自分ごとにならないくらいなら、
現世利益したほうが
でも、きのうの投稿、読んでみてほしい。
たぶんあのSNS発信した子ども食堂運営主は、
「私は、ガザ問題を自分ごとにできている!」
と、確信しているからあんなふうに書いたんだろうと、思える。
でも私からすると、自分ごとになっていない。
というか、〝ジブンゴト大学〟なんていうイベントもどこかで参加したことあるけれど、戦地の悲惨な状況や差別される側のロンリを目の当たりにして、オンラインイベントの最後にだけ
って語る人って、どこまでいっても自分ごとには、ならないって思うんだよ。
Zoom閉じたら、なにごともなかったかのようにお風呂入ってお風呂上りにアイス食べたりしちゃうんだろうし。
(だから私のようなヒネクレ者は、「自分ごとにしよう!」みたいな呼びかけを、〝薄気味悪く〟感じちゃうわけだが。)
「世界平和を祈願する」ってことは、もしかしたらきのうの投稿のあの人みたいになっちゃっているキケンを、はらんでるっていうこと。
そうなっちゃうくらいなら、足下のシアワセを地道に、確実に祈るほうがいい。現世利益、万歳だ。
マインドフルネスが世界に流布するおおもとをつくったともいえるベトナムの僧侶ティク・ナット・ハン師は、究極の祈りは
だとおっしゃり、マインドフルネスを推奨したんだよね。
釈尊の
も同じこと。
なぜなら仏教のおおもととなったヴェーダの教えによれば、「私自身も、भगवान् (神というか自然法則そのものみたいな、人格もないこの世のすべてを支えている存在)の一部である」と知ることが、究極の智慧といわれてる。