お寺や神社が株式運用することの是非
答えのない沼へ、ようこそ。
今日も蓮沼のなかで、お寺が株式運用するのって、いいの悪いの? を考えてみよう!
寺社が投資に手を出すのはダメなこと?
国民の人生100年時代。
金利のつかない時代が続き、皆さんの老後を年金だけで支えていくには財政がこころもとない。
ということで、いまや公立高校でも会社四季報を教材に、ダミーの株式運用をしてみる授業があるほど。
60代以下の人は投資への抵抗感も減っているだろうが、お寺の責任役員は70歳代以上の割合が非常に高い。
動画にあるとおり、数年前には高野山が投資失敗で多くの損失を出したことが報じられ、「市民がさしだした浄財を寺が運用失敗して減らすなどもってのほか」と非難された。
大規模寺社は、投資をしたほうがよい
だが、高野山が非難されてしかるべきだったのは、商品内容をよく理解することなく、また投資先も吟味することなく、ただ証券アドバイザーの言うがままに投資をしたこと。
さらによくなかったのは、法人代表者が、われわれは素人で、よくわかっていなかった、だから非はない、とでもいわんばかりの釈明をされていた点だ。
お寺は市中から集めた浄財を、数十年に一度の多額の修理費用に充当するため、長い期間据え置かなければならない。
安全だからといって金利のほとんどつかない定期預金として置いておけば、消費税が上がったぶんや、物価が上昇したぶんは、黙って目減りしていることになる。
これでは、市民がさしだした浄財を、ほんとうの意味で活かしているとはいいがたい。
つまり寺社、とりわけ千万単位の浄財が上がる観光寺院などは、ほんとうは投資を「したほうがよい」のだ。
(ただし、年間収入が一千万円前後までの規模の寺社であれば、物価上昇による目減り分もさして大きくないので、よくわからないまま投資をするより、ひとりでも多くの市民の相談に乗り、少しでもお布施が増えることを考えるのが妥当と、私は考える。)
檀信徒や利用者とともに、運用方法を決めるべき
高野山の失敗をふりかえるとき、運用知識がないからと、外部アドバイザーにゆだねたことが、そもそもの間違いと思う。
寺社は、檀信徒(氏子)の子や孫まで探したら、たいていの職業の専門家がいる。その気になって声をかければ、金融に強い檀信徒は見つかるはず。
あるいは観光寺社であれば、ともに今後の寺社運営を考えてくれるファンを募ってコンペを行うのもよい。
そのお寺(神社)を支えるファンの意見で、蓄財や運用の方法も、投資の方法も、決めてゆくべきだったのではないか。
目減りしても許されるケースもある
また、投資は〝社外を良くしたいという投資家の気持ち〟を乗せておこなわれるべきである。
皆で合議し、「この企業を応援すれば、社会貢献になる」と思えるところ(たとえば国内の基幹産業や伝統工芸を支える企業など)へ投資したならば、結果的に増えなかったとしても、非難されることはなかっただろう。
「支えたい」と思う企業を出資で支えたぶん、社会貢献に役立ったのだから、合議した信徒一同も納得したはずだ。
一方的に財を吸う構造だから「取られた」と言われる
話は投資から経済一般に変わるが、いまの寺社の一番の問題は、檀信徒の間に経済を回しておらず、檀信徒から一方的にお布施を吸い上げる構造になっていることだ。
神社の場合も、地代や祭りの寄付を吸い取るだけで、地域にほとんど貢献していないところが多いのではないだろうか。
かつて寺社が町の中心であったときは、電気設備から仕出しの弁当、仏具や墓石やなにからなにまで、町の商店から購入していた。だから、商店は儲けがでたときは数百万円をポンと寄付したし、寺社の行事も一番の関心事として大事に支えてきた。
市民が企業に所属するようになり、住む場所も配属や転勤で離れていった。それとともに寺社の側も、営業に来る大企業の商品を購入するようになり、町の人との接点はなくなった。
寺社はオンラインでふたたびファンを組織すべき
もし、さきほどの提案のように寺社の財の使いかたについて(投資に限らず)、市民との合議で決めていくようにしていたら、〝一方的に取られる関係〟ではなくなる。
SNSで発信をしたり、新型コロナの間蔓延防止の頃に必要に迫られ儀礼や法話や坐禅をオンライン配信しはじめた寺社であれば、遠方にファンができている可能性もある。
SNS配信も一方的に流すのではなく、ファンのなかから、今後の運営にアイデアを出してくれる人を募り、市民を巻き込みながら成長してゆくのが、今後の寺社に求められる姿なのではないだろうか。
んじゃまた。明日も沼へハマりに来てね♪
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