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フォースター「私の信条」を読んで

この本をやっと手に入れることができた。なかなか手に入れりことができなかった。東京駅の丸善でも近くの三省堂でもなかった。インターネットで在庫を確認してもほとんどが取り寄せだった。Amazonならと思っても取り寄せとなっていた。出社時に丸善の在庫を見たらたまたま僅少となっており、飛び込み購入することができた。その後直ぐに在庫をインターネットで見たら無しとなっていた。何か申し訳なくなった。

何故この本を手に入れたかったというと、心の潤いが欲しかったというのが正直なところであろう。ニーチェ流の考え方や行動に少し疲れたというのとある面でしっくりきていなかったために、ニーチェと対極もしくは批判的なものを探していて突き当たったというところであろうか。日本文学には興味があったが、海外文学にはあまり興味がなかったので出会わなかったのかもしれない。
「私の信条」は、「私は絶対的な信条を信じない」から始まる。色々な政治的、宗教的、哲学的なものに手を染めてきた或いは振り回されたと言った方が適切かもしれないものにとってちょっとびっくりというか新鮮でもある。学生時代は自分の主義主張を持っていることが大人の仲間入りやいかに新しい哲学を手に入れることなどが知的なファッションのようであったものには少し耳の痛い話である。勿論著者は懐疑主義であろうが、全体主義に対する嫌悪もあろう。それに徹底した個人主義者であることからもわかる。それに「私は偉大な人物を信用していない」というくだりからも伺える。
また、民主主義に対しては、他の政治形態と比べればそれほど憎むものではなく、二つの点で支持できるものとしている。ひとつは、多様性を認める点である。これも文学という藝術家であることや個人主義であることから来ると思う。この多様性は社会が必要としていると考えることである。更に、この個人主義は、異質なものを認めるという寛容主義が前提にあるものと思われる。寛容、善意、同情が必要とされているにである。二つめは、批判することが許されることである。そして議会の価値を認めているのである。
そして、著者は力についても言及をしている。所謂権力であり、国家が持つ暴力装置である。これについては、統治にはこれらが必要であることを認めている。ただこの力を文明により休止期間としようとするものである。休止期間にしなければ、多様性を認められた人たちが多様性の活動ができないからである。多様性を認められた人たちの活動を保障しなければならないのである。だから永遠に休止状態にしなければならないのであろう。
色々と考えさせられる。結構刺激的な本である。
他の評論も読んで色々と思考をしたいと考えている。刺激的な本であることは間違えないと思う。

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