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呉春 -画を究め、芸に遊ぶ-:1/大和文華館

 四条派の祖・呉春の画業を顧みる本展。先週24日まで、奈良・学園前の大和文華館で開催されていた。
 筆者は10月27日、正倉院展とのハシゴで前期展示を鑑賞しており、後期展示は松伯美術館との抱き合わせで、最終日当日の夕方に滑り込み。
 前・後期で入れ替わる作品の数はさほどではないものの、たとえば6曲1双の《柳鷺群禽図屏風》(京都国立博物館  重文)は右・左隻が前・後期に分割、師・与謝蕪村による対幅の《鳶・鴉図》(北村美術館  重文)も前・後期に分けられており、2度訪ねることにした。

 呉春の画業はまさしく、本展の概要で述べられているように「理想を目指して洗練されていく画風の変化」の軌跡であった。
 すなわち、コテコテの蕪村風にはじまり、円山応挙に接近してその風を採り入れ、洗練の度を高めて、のちに四条派と称される一家をなしていく——この過程を、本展では描きだそうとしている。

 単独で重要文化財に指定されている呉春の作品は2点あり、本展ではその2点ともが通期で展示されている。うち1点が、先ほど挙げた《柳鷺群禽図屏風》である。

 さわさわと風にそよぐ葉や枝。近づいて観察すると、じつにてらいのない筆で、非常にすばやく線が施されていることがわかった。アップの状態では「なにがなんだか」な激しい線の重なりでしかないけれど、引きで観れば、ちゃんと葉や枝になっている。
 本作と蕪村《鳶・鴉図》は隣り合って並べられていたのだが、それは上記のような点であるとか、右隻のカラスの物言いだけな表情、解説にいわれる「人間くさい鳥」に、呉春と蕪村との共通性を確認することがねらいだったのだ。

 蕪村が今際の際に呼び寄せ、辞世の句を書き取らせるほどの高弟だった呉春は、師の没後に応挙の門を叩く。すでに呉春の腕前を認めていた応挙は友人のように接し、門下の客分として遇したという。
 兵庫・香住の大乗寺では、呉春が応挙一門のなかに混じって、2度にわたり襖絵を描いている。どちらも本展に出品。
 《群山露頂図襖》(天明7年〈1787〉=リンク)には「蕪村高弟」との署名がある。この時点ですでに、蕪村の没後から数年経っていたにもかかわらずである。そして、そう署名するだけあって、画においても蕪村の影が色濃い。

 翻って、後年に描かれたもうひとつの呉春による襖絵《四季耕作図襖》(寛政7年〈1795〉)では、線の氾濫はなりをひそめ、より整理された画面に。

 大乗寺のふたつの襖絵は、呉春が蕪村風から抜けていき、新味を獲得していくさまをよく表している。

 なお、どちらの襖の裏面にも、応挙による金地の《松に孔雀図》が描かれている。応挙一門における、呉春の特別な待遇を感じさせよう。(つづく


スイフヨウの花(10月27日・大和文華館の庭園にて撮影)


 ※《群山露頂図襖》は、大乗寺客殿での配置そのままに、展示室の隅を利用してL字に配されていた。さらに、畳表を模した細かい目の入った薄緑のマットを手前に平置きすることで、堂内を可能なかぎり再現、同時に展示スペースの有効活用がはかられていたのであった。


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