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大雅と蕪村―文人画の大成者:2 /名古屋市博物館

承前

 《十便十宜図》の制作背景に一手一手迫っていく本章には、推理小説を読むようなスリリングさがあった。

 下郷家が《十便十宜図》の所蔵者だったことは、画帖の題字にある、下郷家の当主・学海への為書きから判明する。制作から16年後、題字が揮毫された時点で《十便十宜図》は下郷家にあった。
 ここで目指すのは、《十便十宜図》の注文主=下郷家であることの立証だ。
 確たる証拠がない現時点では、下郷家をめぐる各種資料を手掛かりに状況証拠を積み重ねていくことが求められる。
 考察のポイントは、次の5点に集約できる。

  1.  作品の背景にある「園林文化」と、下郷家での受容

  2.  下郷家の文化的土壌

  3.  当主・下郷学海の漢籍への教養

  4.  大雅と下郷家のつながり

  5.  蕪村と下郷家のつながり


1. 作品の背景にある「園林文化」と、下郷家での受容

 《十便十宜図》やその原詩に描かれるような、田園に身を置いた隠逸の暮らしを理想とする価値観が、中国には伝統的にあった。「庭園」を意味する語から、これを「園林文化」と呼んでいる。
 園林文化は日本においても盛んに受容され、下郷家でも、園林文化を強く意識した大規模な庭園「小山園」が造営された。

2. 下郷家の文化的土壌
 《十便十宜図》の注文主としてふさわしい文化的土壌が、下郷家にはあった。
 下郷家の当主は代々風流を好み、とりわけ俳諧に深く通じた。西鶴や芭蕉と交わり、彼らとの交流を示す書簡や添削の跡、ゆかりの品々がいまも遺る。芭蕉を慕う後世の俳人たちが下郷家をたびたび来訪したことも知られる。
 こういったありさまは、下郷家の歴代当主が250年間にわたり書き継いだ日記や、伝えてきた文書によって追うことができる。

3. 当主・下郷学海の漢籍への教養
 《十便十宜図》を所蔵し、制作時に下郷家の当主だった下郷学海は、「お家芸」の俳諧に加えて漢籍にも精通し、研究・出版活動をおこなった。
 《十便十宜図》のもととなった李漁の詩は、それ以前に絵画化された例がない。そんな画題をあえて選択する背景に不可欠な漢籍への深い造詣・理解を、学海は十分備えていたと考えられる。
 惜しむらくは、学海の日記には未記載が多く、《十便十宜図》の注文に関する言及箇所が残っていないことだ。

4. 大雅と下郷家のつながり
 下郷学海は大雅と直接の交流をもった。日記の記述や大雅からの書簡、作品など、裏づけとなる資料は多い。
 なかでも、藍染めの浴衣は興味深いもの。
 解説によると、富士登山に向かう大雅が下郷家に立ち寄った際、学海は餞別として無地の浴衣を差し入れた。大雅は即座にその浴衣を竹の画と賛で染め抜き、旅立った。その浴衣を着て颯爽と登頂を果たした大雅は、帰途にも下郷家に立ち寄り、記念にこの浴衣を置いていったとのこと……

5. 蕪村と下郷家のつながり
 接点は乏しいとされてきたが、諸国に張りめぐらされた俳人たちのネットワークをたどっていくと、そう遠くはない位置関係にあることが近年わかってきた。直接的なつながりは依然として見えないものの、不自然ではないという。

 以上、1~5の妥当性を示すために、大量の資料が出陳されていた。本展全般にいえることだが、ほんとうに綿密な仕事である。

 展示では、《十便図》《十宜図》各1図ずつが公開。
 2か月の会期中に10度も展示替えをするため、各図の公開期間は非常に短いスパンで設定されている。
 全ページを同時にじっくり観たいのはやまやま。
 とはいえ、《十便十宜図》のことをこれでもかというくらいに考えた直後だったので、「もう十分観たかな」という気分になってしまったのが正直なところである。(つづく

※《十便十宜図》には、じつはもうひとり、注文主の候補がいる。大坂のマルチな文人・木村蒹葭堂だ。この説について図録では詳しく触れられているが、展示ではさらっと言及する程度であったため割愛した



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