若冲と一村 時を越えてつながる:3 /岡田美術館
(承前)
本展では若冲・一村の着色画のほか、彼らの水墨作品や、周辺作家・作例についても多くのスペースが割かれていた。
若冲の絵は、入念な描きこみの着色画はもちろん、水墨画にも大きな魅力がある。
水墨の作例からは、筆さばきのおもしろさがより直截的に堪能できる。思いきりのよい筆の運び、墨色の美しさが、若冲水墨の身上であろう。
《三十六歌仙図屏風》は、描かれている内容も、描いているタッチも非常に洒脱。伝統的な歌仙絵を、おもしろおかしくパロディした屏風である。
田楽やおはぎを、せっせとこしらえる歌仙もいる。
余談だが、この屏風の前にいるときはちょうどお昼どきで、歌仙謹製の田楽やおはぎを観ていると、なんだかむしょうにお腹が空いてきたものだ。わたしと同じく食いしん坊の読者がいらっしゃったら、上の画像からおいしそうな田楽やおはぎの姿をぜひ探してみてほしい。
しかしまあ、食べ物をさもおいしそうに、食欲をそそるように描くことは、思いのほか難しいものだ。さらにそれを、若冲は墨一色でやってのけている。
こんなところにも、若冲の美味さ……でなく上手さが、表れているといえるのかもしれない。
《月に叭々鳥(ははちょう)図》。
《三十六歌仙図屏風》とはまた違った意味での「思いきりのよさ」を感じさせる、水墨の快作といえよう。
叭々鳥は中国絵画にしばしば描かれる鳥で、それに倣った漢画系の日本絵画にも作例がみられる。
黒々とした姿はカラスに似るが、胸にワンポイントで抜かれた白い模様や、額(ひたい)にあるふさふさで見分けがつく。
いかにも水墨向きのこの鳥を、若冲も墨のみを使って表している。しかも、こんなポージングで。
空気抵抗を最小限に抑えられそうな、逆三角形のフォルム。それが真っ逆さまに急降下していくさまは、まるでブルーインパルスじゃないか。
ついこの叭々鳥に注意がいってしまうが、右上に大きな月が出ていて、夜の景とわかる。胸の白い箇所に薄墨がひかれるのは、月の光を背負って影となるこちら側に、叭々鳥の腹部があることを示すのだろう。それほどに、月の光が強いとも。広重の《月に雁》を先取りしたかのような、細長の対角線構図である。
本作や《三十六歌仙図屏風》は東洋絵画の伝統的な画題を採っているが、若冲の解釈にかかれば既存のイメージはたちまち解体・転換され、別物と化してしまうことを如実に物語っている。
その解体・転換の過程を誰より楽しんでいたのは、他でもない若冲その人ではなかっただろうか。絵を観ていると、そんなふうに思えてくる。
これら若冲の作に対応する一村の水墨は、色紙の1点。
滝に白の顔料が差されていて純粋な水墨とはいえないが、それ以外では、墨の濃淡だけを駆使。結果、ここまでの奥行きと空気感が表せる技量はすばらしい。
一村の水墨を、ほかにもたくさん観てみたいものだ。
——本展では、若冲・一村の前後に、理解を助けるふたつの展示が配される構成がとられていた。
導入部は、近世を中心とした花鳥図屏風の部屋。殿(しんがり)は、若冲や一村と同時代に活躍した近い関係性の画家や、一村が影響を受けた画家の部屋である。
どの部屋の展示作品も、今回とは異なるテーマの展覧会ならば主役を張ったであろう作品ばかり。また触れる機会も出てくるかと思われるので詳細は省くが、若冲・一村の前後もまったく気が抜けない、入魂の展示であった。
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