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杉浦非水 時代をひらくデザイン:1 /たばこと塩の博物館
グラフィック・デザイン黎明期の大家・杉浦非水の展覧会は数年おきに催されていて、毎回にぎわいをみせている。
2009年の網羅的な展覧会「杉浦非水の眼と手」(宇都宮美術館)の図録は早々に売り切れてプレミアがついているし、2019年の「イメージコレクター・杉浦非水」(東京国立近代美術館)も手の込んだ展示で話題を呼んだ。いずれも単館開催だったが、今回の「杉浦非水 時代をひらくデザイン」展は満を持しての全国巡回展となっている。
というわけで、たばこと塩の博物館で開催中の東京展へ行ってきた。
展示構成は、生い立ちからの時系列にときおりトピック展示が挟まれるスタンダードな形式で、ポスターや本の装幀、パッケージデザインの製品とともにデザイン原画やスケッチが多数並べられていた。
もちろん、それらもたいへん興味をひくおもしろいものだが……わたしにとって、非水といえば『非水百花譜』。はっきりいって、『百花譜』への愛は強い。『百花譜』に打たれ、いつまでも心奪われたまま日々を暮らしている。
申し遅れたが、『非水百花譜』は花をテーマとした木版画のシリーズで、その名のとおり100種類の花卉を100点の木版画に描いたもの。5点ずつ20回に分けての刊行とはいえ、100点からなる組み物が、完結まで途切れず続いたのだ。しかも、大正9年の初版から幾度も再版されている。まさに当時の大ヒットシリーズであった。
過去の回顧展でも今回の展示でも、非水展のメインビジュアルとして取り上げられるのは決まって三越や地下鉄のポスターで、『百花譜』はいつも3、4番手の扱い。「リーフレットの裏面には必ず載る」といったところだ。
たしかに、『百花譜』の位置づけは難しい。『百花譜』を第一に持ってきても非水の全貌を象徴的に示すことはできないし、組み合わせにしようとしても、レトロモダンで斬新な商業デザインの作例とは相容れない。章の解説にも「代表作の一つとして挙げられながら、かえって異彩を放つ」とあって、大きく頷いてしまった。
そうであっても、『百花譜』はリーフレットのどこかには「必ず」載る。非水の仕事のバリエーションを示すことができるし、なにより『百花譜』を目指して来場する一定数のファンがいるからだ。わたしもそのひとり。
『百花譜』の魅力は、まず線描だと思っている。原画は鉛筆で描かれているため、筆で引いた線とは異なり肥痩やかすれがない。平面的で淡々とした、理知的なたたずまいの所以だ。
非水自身の言葉を引くと「図案は自然の教導から出発して個性の匂ひに立脚せねばならぬ」(『非水の図案』、1916年)。非水はアトリエから外に出て、自宅の庭や野辺の草花に徹底した観察眼を向けた。非水のスケッチ帳は、いまも大量に残っている。そのようにして生まれた「個性の匂ひ」こそが『百花譜』だった。
『百花譜』が丹念に自然を写しとっているさまは、おのおのの図をつぶさに観ていけばいくほどに理解できる。だが、写生を基本としてはいても、そこはデザイナーの面目躍如。『百花譜』にある植物の姿は、ある瞬間を凍結してトレースしたようなものではなく、構図として計算しつくして配置されているのだ。
それはうねうねとした蔓(つる)の描写からもうかがえる。非水は日本でも最初期にアール・ヌーヴォーを受容し造形の起点とした図案家だから、こういった蔓の描写は非常に「らしい」表現ともいえる。
時に、くねらせすぎではないかというくらいに曲がり、枝にからみつくなどしている蔓もある。ここではデザイン性が写生・写実にまさっていて、いささか芝居がかってもいるのだが、博物図譜や植物図鑑の挿絵とは一線を画する面でもあり、やはりまた魅力のひとつといえよう。(つづく)