断簡の 断簡なりの美しさ
もうちょっとだけ、断簡のことを。
アーティゾン美術館の館蔵名品展「はじまりから、いま。」は、いくつかの新収蔵品のお披露目を兼ねている。そのなかには、かの《鳥獣戯画》の断簡も含まれていたのだった。
落馬ならぬ「落鹿」してしまったのだろう、尻もちをついた猿がおんおん泣いている。「烏帽子とれちゃったぞ。だいじょぶかい、おまえさん」と仲間の猿。「ほれ、見なよ。いまにあいつがひっ捕らえてくれるよ」と後ろ姿の兎が指差す先では、もう一匹の猿が烏帽子を抑えつつ疾駆、暴れ鹿を追いまわしている……
表情豊かで躍動感あふれる、じつにいいシーンである。白描の筆も、ノリにノっている。
動物たちの連なりと下の土坡(どは)が「>」の形に末広がりになっていて、構図も絶妙だ。ほんとうに、よくぞこんなにもいいところをトリミングできたなあと感心してしまう。
国宝絵巻のよく知られた場面と比べると褪色が目立ち、下部には破れ・欠損が見受けられる。この前後が激しく傷んでいて、ここのみをかろうじて活かす選択だったのかもしれない。
新収蔵品ではないものの、お隣には、国宝絵巻の断簡がもう一点。《平治物語絵巻 六波羅合戦巻断簡》だ。
同じ巻から別れた断簡がMIHO MUSEUMなどにも所蔵されていて、どちらもやはり素晴らしいトリミング。
この前には物語があり、後ろにも長く続いていくはずなのに……これらのお軸では、画面としてきっちり完結しているように見えるではないか!
大自然を前にして「どこを切り取っても、絵になるよなぁ」といった評が口をついて出ることがある。
比喩でなく言葉のままに絵巻を切り取るとしたら、実際問題、相当なむずかしさがあるだろう。切り取る者のセンスが、大いに問われるからだ。
前後の存在や全体像をほのかに意識させながら、単体でもじゅうぶんに高い鑑賞性を有する。「断簡なりの美しさ」があるとすれば、そういったことなのだろう。
――根津美術館で以前開かれていたコレクション展示のコピーがなかなかに心にくく、印象に残っている。
ともすれば、マイナスの方面に受け取られがちな「分割」「切断」という行為。
けれども、視点をちょっぴり変えてみるだけで、その行為じたいがひとつの豊かな文化現象をなしていることに気づかされる。
断簡や古筆切を観て、離ればなれになってしまったみなしごの淋しさや、作品に刃を入れた事実への後ろめたさを感じる向きもあるかもしれないが、そんな必要はきっと、ない。
「共有共楽」の恩恵に浴して、素直にその小さな美の世界を楽しみたい。
※ちなみにMIHOは《鳥獣戯画》の断簡を2点も所蔵している。《鳥獣戯画》と《平治》という国宝絵巻のどちらもを所蔵しているのは、東京国立博物館とこの2館だけだ