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宮城・丸森「うるう日」さんぽ :2 猫神さまの碑

承前

 宮城県丸森町の主な観光資源は、長らく「阿武隈ライン舟下り」「齋理屋敷」の2本柱であった。仙台生まれの筆者からしても、丸森はそんなイメージ。
 そこに近年、もうひとつの柱が新たに加わった。ネコの姿が刻まれた「猫神」「猫塚」と呼ばれる石碑群が、にわかに脚光を浴びているのだ。

 養蚕がさかんな地域では、カイコの天敵・ネズミのそのまた天敵であるネコが、どこの農家でも飼われていた。生業を守ってくれる “益獣” として、ネコはとても大切にされ、しばしば願かけや信仰の対象ともなった。
 この種の作例として、「新田猫絵」と呼ばれる特徴的な絵がよく知られている。
 現在の群馬県太田市を治めた旗本・新田岩松家の当主が代々描き継いだもので、領内やその周辺の養蚕農家で、ネズミ除けの護符として珍重された。かなりの数が描かれたとみえ、古書店やヤフオクでも、しばしば流通している。

 丸森の「猫神さま」もまた養蚕に関わる遺物であるが、石碑や石像によって猫を表した事例は、全国的にみれば意外なほど稀少なのだという。
 研究によれば、同様の猫神さまは、全国にわずか168基のみ現存が確認されており、そのうち、じつに84基が丸森にある(※2023年9月22日現在)。
 長い眠りの時を経て、新たに見いだされた猫神さまは、丸森町の町おこしに大きく寄与している。

 猫神さまは町内各所に点在しており、阿武隈川ライン舟下りの事務所や齋理屋敷から歩いて行ける範囲でも、9基の石碑を拝見することができた。
 上のサムネイルは、細内観音堂の猫神さま。舟下りと齋理屋敷のちょうど中間あたり、自転車すら侵入できない細い露地が、表側の参道となっている。

細内観音堂へと至る道(なき道)
観音堂がみえてきて、正直、ほっとした
観音堂の左手に、石碑が集められていた。金属製の覆い屋がつくものが、猫神さま
第1猫神発見。聞きしにまさる猫ぶり……見紛うことなき猫である
この子は、ペロっと舌を出しているようにみえる。顎の下あたりの毛づくろい中だろうか

  「猫神」という名の神がいたわけではなく、多くの猫神さまは、実在した猫を、飼い主が没後に供養した碑とされている。
 上のページによると、細内観音堂のこの猫神さまは「ふじ」という名前で、ふじを偲んでいるとおぼしい和歌が、碑の上部にみえる文字の正体なのだという。
 とすれば、この像は生前のふじの姿を正確に表しているはず。元気だった頃のふじは、こんなポーズをよくしていたのだろう。泣けてくる……

 細内観音堂のある小山を下り、丸森の市街地へ。モダンな旧丸森郵便局の先を曲がると、左手には齋理屋敷の敷地が延々と続いていた。そのさらに奥、丸森小学校を過ぎた突き当たりに、8基もの猫神さまを擁する禅寺・西円寺がある。

旧丸森郵便局(昭和10年  登録有形文化財)。うつわなどを扱う「ギャラリーショップ草舟」となっている

 境内は広かったが、山門をくぐった右脇にさまざまな石碑が種類別に集められており、猫神さまの位置もすぐにわかったし、8基すべてを一気に確認することができたのだった。
 細内観音堂の像はレリーフ状の彫りとなっていたのに対して、こちらは線刻によるものが多い。まず、4基。

右から。明治31年銘
摩耗が激しい
線刻。明治26年銘
最も摩耗が激しく、石の質や色も異なる

 次に、奥の4基。

やはり右から。レリーフ状。うずくまる猫
線刻。慶応3年銘
レリーフ状。明治34年
線刻。昭和5年銘

 どれも、細内観音堂の碑に比べると小ぶりで、摩耗が進んでいたり、苔に覆われていたり。猫の姿を即座に把握できるもののほうが少ない。
 けれども、みつめているうちに姿が浮かび上がってくる、いわば点と点が結ばれるに似た楽しみがあるのも確かであった。
 以下のページでは、画像上で線がなぞられており、答え合わせができる。ご興味のある方は、ぜひ。


 ——じつはこの旅のなかで、リアル「猫神さま」に出逢うことはできなかった。
 養蚕が主たる地場産業ではなくなった現在、昔ほどは猫の数が減ってしまったのか、はたまた、単に寒いから家にこもっていただけなのか、そこらへんは不明だが……数代前をさかのぼれば、石碑の猫神さまたちと血のつながっていそうな現役の猫たちにも、ぜひお会いしてみたかったものである。
 いつかのリベンジを期して、丸森を後にした。



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