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百草蒔絵薬箪笥と飯塚桃葉 /根津美術館

 江戸後期に活動した、徳島藩蜂須賀家のお抱え蒔絵師・飯塚桃葉。その代表作《百草蒔絵薬箪笥》(明和8年〈1771〉)にスポットを当てる展覧会が、所蔵する根津美術館で8日まで開催されていた。

 本展は、本作の重要文化財指定を記念するとともに、本作が高松藩松平家との関わり合いのもと制作されたとする新説を披露する場ともなっている。

 第1章は「飯塚桃葉とは何者か」。江戸蒔絵への注目は高まっているけれど、桃葉の知名度はまだまだ。「ですよね~」と、心のなかでリアクションするのであった。
 まずは、桃葉の主だった作を並べていく。お抱え作家にふさわしく、蜂須賀家をはじめとする大名家伝来・ゆかりの品、狩野派の下絵による作が多くを占めた。
 蜂須賀家に伝わった狩野美信・下絵《熊笹蒔絵鞍鐙》(徳島市立徳島城博物館  徳島県指定有形文化財)には、目を凝らさなければ見えない工夫がいっぱい。さりげない、超絶技巧。

 お抱え作家の作品は、贈答品や婚礼調度にも使われた。長岡藩・牧野忠寛の副葬品だった《兎蒔絵印籠》(長岡市立科学博物館=下図)、熊本藩主・細川重賢旧蔵の《五岳蒔絵印籠》(永青文庫)に、蜂須賀家と鷹司家の縁組みに際し制作された《塩山蒔絵細太刀拵》(東京国立博物館)。

 こうして、じっさいに桃葉の作品をみていくと、現時点での知名度は、まるであてにならないものだと痛感される。
 たいへん高い腕をもつが、これ見よがしな感じがない……逆にいえば、そんな一歩引いたところも、桃葉のような作家が埋もれてしまう理由なのかもしれない。

 第2章ではいよいよ、本展の主役《百草蒔絵薬箪笥》が見参。昭和8年の蜂須賀家売立で根津嘉一郎が落札した逸品である。
 全部で10ある引き出しには、小さな箱や瓶、薬匙といった小物がぎっしり詰められている。会場ではそれらがすべて出しきられており、圧巻であった。

 小箱や小瓶は、薬を収納するためのもの。冊子の目録と対照させると、なにを入れるための容器だったかが判明する。梔子(くちなし)、薄荷(はっか)、葛根(かっこん)などあるいっぽう、牡蠣、石膏といった、ややふしぎな名も混じっており、興味をひかれる。

 ※容器のみ現存。薬は入っていない。

 前蓋の裏面に施された、細緻極まる植物の描写に、目を奪われる。ここには100種類もの植物が、正確かつ複雑に重なり合うよう描きだされており、種名が極細の文字で記入されてすらいる。

 蓋裏の植物や昆虫を丹念にみていくと、博物図譜《衆芳画譜》《写生画帖》(香川県立ミュージアム)に共通するモチーフが、極めて多く見受けられるという。ふたつの図譜は、高松藩の5代藩主・松平頼恭(よりたか)が命じ、平賀源内が関与して制作されたものだ。

 蜂須賀家では2代にわたり、高松松平家から養子をもらっていた。頼恭は徳島藩の10代藩主・蜂須賀重喜の縁戚にあたる。
 重喜は藩政改革に乗りだすも失敗、奢侈ぶりもあって蟄居を命じられ、お家存続の危機に陥ってしまう。そのとき、後見人として徳島藩の存続に尽力したのが、高松藩の頼恭だった。阿波の人びとは頼恭に深い恩義を感じ、頼恭の没後に墓前へ詣でる人が多くいたという。
 また、重喜の命により《百草蒔絵薬箪笥》が制作された明和8年は、頼恭が還暦を迎えた年であり、没年でもあった……
 以上のような背景から、博物趣味のあった藩の恩人・頼恭へ向けた還暦祝いの贈り物として《百草蒔絵薬箪笥》が制作、完成を前にして頼恭は逝去し、蜂須賀家にそのままとどめ置かれた——とする推論が、本展では披露されていたのであった。
 贈る相手=頼恭の長寿や健康を祈って「薬箪笥」が誂えられたであろうことは、想像にかたくない。還暦を迎えてまもなく、その年のうちに頼恭は亡くなってしまうのだから、残念無念である。
 それに、完成した時点ですでに、贈る先を失ってしまっていたのだとすれば、小箱や小瓶に薬がいっさい入っていないというのもありえる話だろうなとも思われた。
 
 ——根津美術館の特別展はいつも、美術史の醍醐味を存分に味わせてくれる、知的で愉しいものとなっている。
 本展に関しては、年間スケジュールが出たときから拝見したいと思っており、《百草蒔絵薬箪笥》がどのように展示されるのかも含めて大いに期待を膨らませていたものだが、それ以上の内容であった。
 
  「今後も目が離せないな」と思い、ホームページを開いてみたところ、来年度の年間スケジュールがもう出ていた……遠征が、はかどってしまうなぁ。


根津美術館のお庭



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