やまもとの至宝・飛鳥時代の大刀と馬具:1 /山元町歴史民俗資料館
イチゴの名産地・宮城県の山元町(やまもとちょう)。南は福島との県境に接し、東は太平洋に面している。
2011年の東日本大震災では高さ10メートルの津波が押し寄せ、町域の37.2%が浸水。甚大な被害を受けた。町内唯一の鉄道路線・JR常磐線沿いも浸水域には含まれ、多くの町民が内陸部への集団移転を余儀なくされた。
復興住宅の造成という急を要する工事といえども、着工するには、考古学的な調査を経ることが必須となっている。
その過程で注目を浴びたのが、2014年8月から本格的な発掘が始まった「合戦原(かっせんはら)遺跡」。飛鳥時代から奈良時代(7世紀前半~9世紀前半)にかけての横穴墓(よこあなぼ)群である。
斜面に築かれた54基の墓からは、金属器や土器、勾玉やガラス玉など6000点もの遺物が発見された。
異例・初物づくしのなかでも最大の発見が、2015年5月にみつかった「線刻壁画」。最も大規模な横穴墓の壁に刻みつけられた、古代の人びとによる絵画である。
このような装飾が残された横穴墓は、東北地方では類例が限られている。さらに、描かれたモチーフの種類や数が多く、また人物の顔がはっきりわかるように表されているといった点から、非常に貴重なものとなっている。
震災を機に出現した、町の新たな遺産。なんとかして残したいところだが……問題は、保存方法だった。
現地での保存は、技術的に不可能と判明。高台への居住地移転を当初の計画通りに、いち早く進めたい事情もあった。
そこで、線刻壁画の移設という選択肢がとられたのであった。
古代壁画の取り外し保存というと、奈良の高松塚古墳やキトラ古墳の例が思い浮かぶ。
だが、石材を積み上げた古墳の石室と、断崖を掘り進めただけの横穴墓とでは、壁面の強度も取り外しやすさも異なる。
砂岩質でもろい壁面を、崩壊させることなく完全に剥がすため、考古学・文化財科学の専門家たちが力を結集して独自の技法を開発、線刻壁画の移設という日本初の試みは成功をみたのだった。
2018年11月から壁画の常設展示がはじまった山元町歴史民俗資料館は、合戦原遺跡から車で5分ほどのところにある。
移設にあたっての試行錯誤、その経過をテレビや新聞から見守ってきたわたしは、帰省の折にぜひ、この展示を訪ねてみたいと思っていた。
——合戦原遺跡から見つかった遺物のうち、線刻壁画に次いで貴重といえるのが、金属製品の数々。なかでも、金色に光り輝く大刀(たち)は、国内でわずか90例、東北地方では6例めとなるもの。
この大刀をはじめ、保存処理を終えた金属製品を一挙公開する企画展が、昨年秋から年明けにかけて開催。これを好機と捉え、ついに山元町を訪れたのであった。(つづく)
※線刻壁画の移設に関して、まとめられた記事。NHKの「プロジェクトX」が復活するらしいが、ぜひ取り上げてほしい。そのくらい、ドラマに溢れている。