市川から市原へ 古代に国府があった街:1
朝起きた、そのときの気分で、目的地を決める休日もある。
決めきれずに、ずるずると家を出る時間が遅まっていくことも……
この日は「よし、千葉市美術館の荒井良二展に行こう!」と決めて重い腰を上げたものの、総武線に揺られているうちに考えが変わり、千葉駅で内房線に乗り換えた。
昨年オープンした市原の歴史博物館で、これはという展示が開催中なのだ。仏像を中心とした「いちはらのお薬師様 -流行り病と民衆の祈り-」展である。最寄りの五井駅は、千葉駅からわずか10数分。
古代の市原は、上総国の中枢だった。
国府が置かれ、国分寺や国分尼寺の瓦屋根が軒を並べたあたりには、現在、市原市役所が立っており、市原歴史博物館や埋蔵文化財センターも周辺にある。つまり、博物館だけでなく、史跡めぐりを楽しみながら、歴史ある土地に親しむことができるのだ。
これには半日ほどの時間、それと天気のよさが必要である。電車からバスへの乗り継ぎは問題なし、予報はくもりのち晴れ。ちと風は強いが、青信号だ。
市原のように、その地域を代表する考古遺跡の近くに、博物館や歴史民俗資料館が建てられる例はめずらしくない。
同じ千葉県内でいえば市川市や船橋市もそうなのだけれど、市原市と大きく違うところは、大昔に栄えた場所と現在の盛り場とが一致せず、館へのアクセスに難が生じている点だ。
市原の場合は、国分寺と国分尼寺跡の中間に市原市役所が位置しており、公共施設や住宅が集まっているから「陸の孤島」感はない。市原駅から離れてはいても、バスの本数はそれなりにある。
市川市民としては、うらやましいかぎりである。こちらにはかつて、下総国府があったというのに……市川駅から比較的近い国府台(こうのだい)にある下総国分寺・国分尼寺跡はあまり整備されていないし、そこから歴史博物館はかなり遠く、車がなければ足を延ばせない。歴博が国府台に移ってくればいいのになと、いつも思う。
すぐ隣にホンモノの遺跡がある環境は体験学習にはもってこいであるし、強みだけれども、まずは、もっとたくさんの人に気軽に訪れてもらわないことにはなぁと感じるのもたしかだ。
——居住する自治体への恨み節はこのくらいにして……バスから降りて最初に向かったのは、博物館ではなく上総国分寺。東の方向へ「国分寺→国分尼寺→博物館」と歩いていくのだ。直線距離で40分弱のところを、寄り道しながら往く。
バス停から国分寺へ向かう途中には、国分寺に先行する地方豪族の古墳群や、国分寺の屋根瓦を焼くための窯跡が。
仏教伝来後、埋葬方法に変化がみられ、古墳は小型化して新造されなくなるいっぽう、仏教寺院が広まっていった。堂宇を飾るため、朝鮮半島からの技術によって瓦が焼かれ、瓦葺きがおこなわれた。
こういった変革の前後の様相を、上総国分寺の界隈ではみることができる。
国分寺はいまも健在で、古代の国分寺跡の上に立っている。
近世の薬師堂と仁王門(いずれも市指定文化財)があり、鎌倉の仁王像や南北朝の宝篋印塔(市指定文化財)なども残る、誠にゆかしい雰囲気の境内であった。柿の実が、色をつけはじめていた。
周囲のだだっ広い原っぱも、やはり古代の国分寺跡。その一角に、七重塔の心礎が残っている。
塔の中心にあって、初層から最上層までを貫く心柱(しんばしら)を支えるのが心礎。礎石のなかで、最も大きい。
「トウ・シン・ソ」
古寺を愛する者にとって、魅惑の響きである。塔心礎だけで、ご飯三杯はいける。
遺構から推定される往時の七重塔は、高さ63メートル以上とか。法隆寺の五重塔のおよそ2倍(!)、市原市役所の庁舎(約50メートル)よりも高かった。
塔心礎を観ながら、頭のなかで、空想の七重塔を立ち上げる。現代でも市役所を除けば高層建築はないが、当時はそれ以上に低層。さぞ目立って、遠くからでもよく見えたことだろう。
海岸線はいまよりずっと近く、港はすぐそこ。行き交う船の目印にもなったはずだ。同時に、海風のあおりをもろに受けたわけで……残らなかったのも、わかる気がした。
この道をまっすぐ行けば、市役所に至る……なんて、信じがたいものだが、本当である。
市役所の前を過ぎて、国分尼寺を目指す。(つづく)
※下総・上総とも、国府がどのあたりに置かれていたのか、正確な位置は不明。国分寺や国分尼寺の近くではあるようだ。