見出し画像

美と用の煌めき 東本願寺旧蔵とゆかりの品々 /大谷大学博物館

 洛中の人びとから、親しみをこめて「おひがしさん」と呼ばれる東本願寺。その旧蔵品とゆかりの品々を特集した展覧会が、大谷大学の附属博物館で開かれている。

 京都の寺院に多くの障壁画を残す京狩野派は、東本願寺とも深い関係にあった。
 京狩野の2代目・山雪の《武家相撲絵巻》(江戸時代・17世紀  相撲博物館)は、東本願寺13代門主・宜如によって九条家に献上されたことが、3代・永納の識語によってわかる。
 山雪は蘭亭曲水のダイナミックな襖絵を東本願寺のために描いたというが、残念ながら行方不明。本展では美術史家・土居次義の調査資料によって紹介している。
 永納の次男・永梢に関しては、東本願寺の絵所(えどころ)を務めた記録があるものの、活動の詳細は不明で、現存作例はほぼない。そんななか、本展では貴重な永梢の作品《花鳥図》1幅を展示。
 伝・牧谿《杜甫帰驢図》(室町時代・15世紀  出光美術館)が掛かるすぐ下には、同じ図柄のミニチュアの軸が平置きされていた。狩野探幽のスケッチ、いわゆる「探幽縮図」の断簡である。探幽が写した作品と、探幽の写しとがセットで伝来しているわけだ。
 縮図のメモ書きにより、伝牧谿のこの軸が、探幽がスケッチした時点では東本願寺の所蔵品であったことが判明する。

 狩野派の作品に続いて、近世後期から近代にかけての東本願寺門主による手づくりの品、お好みの品が登場。分野は書に画、陶、木の仕事と多岐にわたる。
 なかでも玄人はだしの絵を描くのが、21代門主・厳如。松村景文に師事した本格派で、門主としては岡本豊彦、塩川文麟、幸野楳嶺らを重用した。
 世界最大級の木造建築物ともいわれる東本願寺御影堂(明治28年〈1895〉 重文)の須弥壇は、現在も、楳嶺の描いた蓮の図によって彩られている。
 御影堂の余りの絵具を用いて描かれたと伝わる出品作、楳嶺《蓮華之図》(明治27~28年〈1894~95〉 福田美術館)。

 楳嶺没後に東本願寺へ納められたというが、のちに寺を出て、いまこうして里帰りしているわけだ。

 厳如は隠居後に、東本願寺や大谷家の什物を大々的に整理している。このとき誂えられた仕立ては「厳如箱」と呼ばれ、蔵品の証として捺された朱文長方印「園林」とともに、東本願寺旧蔵であることを物語る標識となっている。
 厳如没後の明治42年、昭和2年の2回にわたって、東本願寺および大谷家は大規模な売立(入札会)をしている。厳如による所蔵品の整理は、皮肉にも売立の開催、そして散逸につながった側面があるという。整理されたことによって、手つかずの状態が解消され、なにがあるのかが把握でき、処分がしやすくなったのだ。
 本展の出品作の多くは、このときの売立目録に掲載されているもの、厳如箱や印をともなうものから成っている。探幽や円山応挙、伊藤若冲、横山大観らのビッグネームが並ぶ。
 若冲は《雪柳雄鶏図》(江戸時代・18世紀  似鳥美術館)。「お値段以上」の北海道の美術館から到来した、近年の新出作品。わたしは今回が初見。
 かろやかに身を翻すニワトリ。雪や枝には、後年みられるようなねっとり感はまだ薄く、細密さはありながら気持ちのよい絵といえよう。

 東本願寺旧蔵の若冲作品は、本作を含めいまのところ3点が確認。いずれも《動植綵絵》(皇居三の丸尚蔵館  国宝)の直前に描かれた作で、若冲と近い関係にあった19代門主・乗如が関わっているとされる。
 どうしても《動植綵絵》が観たかった乗如は、若冲を介して相国寺に依頼、めでたく拝見を果たしたとか。
 関わり方はさまざまながら、歴代の東本願寺の門主には、美の世界に大いに遊んだ人びとが多くいたのだ。

 ——ひと部屋だけの小さな展示でありながら、非常に内容の詰まった、労作といえる展示内容に大満足。
 しかし、なにぶん、あの広大な東本願寺のことである。まだまだ眠っている作品、日の目を見ない事実がわんさかあるはず。シリーズ化や大規模な巡回展など、次の機会にも期待したい、そんな展覧会であった。11月28日まで。

 

大谷大学とその博物館は、東本願寺からは少し離れたところにある。地下鉄「北大路」駅すぐ



いいなと思ったら応援しよう!