臥遊―時空をかける禅のまなざし:1 /慶應義塾ミュージアム・コモンズ
「がゆう」と読む。
中国・東晋時代の画家・宗炳(そうへい)の故事に由来する、東洋絵画の重要な概念で、本展の公式ページでは次のように説明されている。
東洋の山水画には、鑑賞者に臥遊を促すための「仕掛け」が用意されている。
たとえば、画中人物だ。
壮大な岩壁が連なるなか、画面の下のほうにポツンといる、豆粒ほどの人物。彼らは山中の曲がりくねった細道を往ったり、橋の上を渡ったり、小舟で釣り糸を垂れていたりする。建物のなかにいることも。
鑑賞者は彼らになりかわって、岩壁を見上げる。絵のなかに入りこむ。こういった擬似体験が、臥遊である。
山水画の前に立つとき、わたしはいつも臥遊する。多くの場合、展示室内で大きな身体を横たえることはさすがにできないけれど……「遊」の字が示してもいるように、臥遊とはそう硬い概念でもなく、気楽なものだと思う。
本展は、そのような臥遊の気楽さに立ち返りながら、室町水墨画や禅の美術といった、いささか地味でとっつきにくいと認識されがちな分野の紹介を試みる。
来館者を臥遊へといざなう「仕掛け」は、展示室のなかにもたくさん詰まっていた。
雪舟はじめ室町山水が並ぶケースの向かって左には、白木の小上がりが。ベンチというには奥行きが広め。1辺は斜めにカットされていて、絵が眺めやすい角度で座ることができる。
2室あるうちのもう1室は、禅の部屋。
禅僧の墨蹟や羅漢図に囲まれて、部屋の真ん中に見覚えのある黒いモノが3つ……坐禅で用いられる坐蒲(ざふ)である。
いや、これはきっとただのディスプレイ。いくらなんでも床に座っちゃダメだろう。誰も座っていないし……このような静かな逡巡の末、スルーしたのであった。
——上の公式ポストでも述べられているように、じっさいには座ることができたらしい。会場のどこかにそれを示すサインがあったはずだが、見逃していた。
公式noteによると、坐蒲に座ることで仰角からの鑑賞が可能となり、とくに人物画は表情の見え方が大きく変わるのだという。そんなねらいがあったとは。
もしかしたら、小上がりのほうは座るのみならず、「臥」す、つまり寝そべって観ることすら、許されているのかもしれない。ベンチらしからぬゆったり具合は、その証左だったのだろうか?
ほんとうのところは、公式noteにも書いていない。監視員さんに聞いても「他のお客様のご迷惑になりますので……」と丁重にお断りされるのが関の山だろう。
寝転がりながら絵を観るなんて、所蔵者くらいにしか許されない特別な体験だ。もし可能ならば、それこそえらく革新的な展覧会となるわけだが、この点を除いたとしても、革新的といえるもうひとつの点があった。
本展の鑑賞には「手順」があるのだ。
(つづく)
※座蒲の紹介がある公式note。
※慶應義塾ミュージアム・コモンズの展覧会レポ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?