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toubunren
古典と創造 鯉江良二と井上有一:2 /うつわ菜の花
(承前)
鯉江さんのうつわのバックを固めるのが、井上有一の大きな書。
水をたっぷり含ませた淡墨で、たった一文字。複数あるどれもがそんな作品だ。
漢字には、表意性がある。
「花」という字を見れば、その意味を知っているわれわれは、なんらかの花の姿を思い浮かべるだろう。
こういった性質は、書という芸術の利点であると同時に、足枷にもなりうる。
漢字のみで構成された書は、その漢字が元来持っている意味やイメージに縛られがちな面があるからだ。
有一はこれを逆手に取り、鑑賞者に向かってボールを投げる。
――「花」と書いてあるが、「はな」と読んでいいのだろうか。
そのまま、「花」と理解してしまっていいものなのか。
だいいち、知っている「花」の字とは、どうも少し違う気がする。
「花」以上のなにかが表されてはいるのではないか。
そもそも「花」とはなんだ……
有一の「花」を観ていると、そんな考えてもどうにもならぬようなことを、むしょうに考えたくなってくるのだ。
有一の投げたボールを、どう打ち返すか。
果たし合いに応じるために、紙の上の痕跡――筆圧、速度、墨の濃淡、しぶき、余白などからその正体を捕捉しようとして、われわれは、大画面のなかに全身を委ねていくのである。
鯉江さんのやきものによっても、同じような体験ができるように思える。(つづく)