![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46641047/rectangle_large_type_2_738da83d3099dcddf6a69d04b5ea4bbf.jpg?width=1200)
「土の城」小田原城を実際に歩いてみた
小田原城といえば、ほとんどの人が次のような天守を思い浮かべるだろう。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46638843/picture_pc_d25e509bacc042acf48049890bde99ed.jpg?width=1200)
小田原城址公園の風景である。
城址公園が、市民の憩いの場として素敵な場所なのは確かだ。しかし、そこに戦国小田原北条氏の痕跡はあまり残っていない。(※「小峰曲輪北堀」という遺構があるにはある)
関東の雄・北条氏の本拠地としての小田原城のすごみは、城下町全体を取り囲む防衛ラインである、総構(そうがまえ)をたどらなければわからない。
小田原駅から北へ徒歩10分強、住宅街の中に「城下張出」という遺構がある。実際に道を歩くとわかるが、まず坂を上り、ピークを越えてまもなくここにたどり着く。小田原城下を取り囲む、標高の高い尾根筋を防衛ラインとしていたわけだ。まさに天然の土塁を有効活用していたのである。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46639298/picture_pc_0de42a1fbca3d72a2935d5f72a1c36b5.jpg?width=1200)
西に向かうと、造成された宅地の中に点々と残る重要な遺構を見ることができる。まず、山の神堀切。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46639610/picture_pc_d01b16aa7b031e57a8c13b7cee0f05c5.jpg?width=1200)
尾根筋に切れ込みを入れて分断した形が「堀切」だ。敵兵が尾根筋をたどって展開できないよう、動きを制限する仕組みである。
次は、「稲荷森」と呼ばれる区域。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46640009/picture_pc_01a15c7b2907acd2c91db60e4e1bff39.jpg?width=1200)
深い堀をのぞき込むと、外側に土塁の痕跡が見て取れる。戦国時代の形を最もよく残している場所だという。
小峰御鐘の台大堀切西堀は、1590年の小田原征伐を前に、豊臣軍への備えとして造成されたそうだ。戦国末期、決戦に備える北条氏の緊張感に思いをはせる。
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46640358/picture_pc_883dd847b2d377553191e27676e68d64.jpg)
総構の西端に突出した部分である水の尾口からの絶景。西からの敵を警戒する地点として最適だとわかる。
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46640468/picture_pc_f4a941901203778971b4718704120e68.jpg?width=1200)
小峰御鐘の台大堀切東堀。直角に折れ曲がった部分は「横矢掛り」という。敵兵の動きを制限しながら、複数方向から矢を射かける仕組みだ。
![画像7](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46640664/picture_pc_820dba9830030c4b1987165171ca0fc5.jpg?width=1200)
続いて、三の丸外郭の新堀土塁。遺構はどれも住宅街の真ん中で、開発の観点からは城跡が邪魔だったはずだが、よく保存してくれたものだと思う。
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46640870/picture_pc_c0870fd65ada38f5072e7ac3d2cf11a0.jpg?width=1200)
こういった土の城の遺構は見た目も地味で、看板が立っていなければ城跡だということもわからない。しかし、戦国大名たちが実際に築き、戦っていたのは土塁や空堀でできた「土の城」なのである。
ここで紹介したのは広大な総構の一部で、他にも遺構は残っている。戦国ファンとして見ごたえのあるものだということは保証したい。