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生誕120年 猪熊弦一郎展:1 /横須賀美術館
どうしたら、こんな絵が描けるだろう?
どうして、こんな線が引けるのだろう?
つい先日、仙厓さんへ投げかけたばかりの問いを、“いのくまさん” の絵を前にして、またもや繰り返している。
まずは、ふたつの問いが念頭に置いている作品をいくつか挙げてみたい。これらは、広く根強く支持を集める ”いのくまさん” 像とも合致する。問いを反芻しながら、ご覧いただきたい。
なんべんも指摘されてきたことだけれど、子どもの描く絵に似ている。
ということは、ありあわせの常識や既成概念といったものから「かけ離れている」というよりは、むしろ「近い」ものだといえよう。
《子どものわたしなら、こんな絵、描けたかもしれない》
そして「近い」からこそ、ちょこっとずらされ、もろくも突き崩されたときの意外性は大きい。
《大人になったいまとなっては、まずもって、無理だろう。けれども “いのくまさん” という絵描きには、できてしまうのだ。子どもの絵に近くても、同じでない絵が》
この落差こそが、いのくまさんの絵におもしろさを感じる理由なのではないかというのが、展覧会を観て得た感想であった。
そのような、ある種の違和感をトリガーとしていながらも、イコール居心地の悪さには結びつかないというのもまた、いのくまさんの絵のふしぎなところであったりする。
だからこそ、思う――「どうしたら、こんな絵が描けるだろう?」
雲をつかむようなふしぎな絵描きの実像を求めて、所感を綴っていくとしたい。
(つづく)