TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション:2/東京国立近代美術館
(承前)
本展に登場する「トリオ」は、全34組。つまり、34のテーマからなる。
ぱっと見で展示のコンセプトが伝わるであろう最も代表的なトリオが、3人の美女たち。リーフレットにも起用されている。題して「モデルたちのパワー」。
3人とも片腕を後頭部にまわし、もう一方を足の付け根あたりに置いて、足を投げだしつつこちらに視線を投げかけている。人体の曲線美を示す定番のポーズといえようが、それにしてもよく似ている。
上からアンリ・マティス《椅子にもたれるオダリスク》(1928年 パリ市立近代美術館)、萬鉄五郎《裸体美人》(1912年 東京国立近代美術館 重文)、アメデオ・モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》(1917年 大阪中之島美術館)。
描かれた時期は異なり、作品どうしに相互ないし一方通行の影響関係があるわけではない。かといって、たとえば萬自身はマティスの画風からかなり影響を受けてこの絵を描いている。マティスの出品作は、萬のそれより16年も後に描かれているけれど……
などと、ひと組のトリオをもとに、さまざまな見方が広がっていく。
上の一例は作家にまつわる話に終始し、「モデルたちのパワー」という公式なお題すら忘れ去っているが、ほかにも絵としての描写やモチーフについてなど、比較対象は、それこそいくらでも見いだせよう。
「見て、比べて、話したくなる。」という東京展のコピーは、そういったことを表しているようだ。
このように、いわば「他人のそら似」を起点として間口を広げ、鑑賞や連想の契機をつくっていくといったペアリングは、本展の随所にみられた。
もちろん、そればかりでなく、人的なつながりや影響関係、描写や技法上の共通点など、「他人のそら似」に端を発しないペアリングもあるものの、わたしが印象深くおもしろく思ったトリオは「他人のそら似」的なものばかりだった。
非実証的だとか感覚的に過ぎると云う人もいそうだけれど、本展に来たからには、「他人のそら似」を徹底的に楽しみつくすのが礼儀かなとすら思った。
というわけで、筆者の独断と偏見による秀逸な「他人のそら似」を、もう2組ほどお届けしたい。
ピエール・ボナールと藤島武二。
「たしかに、似た構図ですね」に続く感想がなかなか出てこないが……画面の中央に濃い色の壺を配し、アクセントとしている点まで共通しているのは、偶然だからこそおもしろい。《匂い》の小さな壺は、嗅ぎタバコ用の「鼻煙壺」だろう。
色彩の面では、暖色系と寒色系で好対比をなしている。2枚並ぶことで、お互いをより引き立てあっていた。
「色彩とリズム」と題するトリオから、ソニア・ドローネーと菅野聖子。
たしかに、共鳴するものがある。
どちらの絵も、ややめずらしい横長の画面を用い、幾何学的に分割した内側を多種の原色で塗りこめている。一緒に並べたくなるのが、すごくよくわかる。
同時に、違いもまた目立ってくる。
分割の仕方や塗り方が、鷹揚でアバウトなものと、きっちり几帳面なもの。曲線主体と直線主体。黄色の有無。感覚と理論。
トリオのもうひとつは、菅野聖子と同じ具体美術協会の田中敦子による《作品66-SA》(1966年 東京国立近代美術館)。
つまり、このトリオはみな、女性作家による作品からなっている。そのことに気づいて、東近美では近年、女性作家の顕彰に力を入れていることを思い出すのだった。
それとは関連しないものの、「美の女神たち」というトリオもおもしろかった。
藤田嗣治《五人の裸婦》(1923年 東京国立近代美術館)とマリー・ローランサン 《プリンセス達》(1928年 大阪中之島美術館)。あえて図版を挙げずとも、みなさんが想像するままのフジタであり、ローランサンである(ローランサンも女性だ)。
そこに現れる、トリオの最後の片割れがジャン・メッツァンジェ《青い鳥》。
フジタやローランサンの甘美な雰囲気を、ぶちこわし! しかもこの作品、かなりデカい。
まるで3段オチであるが、本作もまた、古典絵画から連綿とつづく女神たちのモチーフを、フジタやローランサンの作と同様に受け継いでいるのだとか。
「してやられた!」というべきか。構成の妙を感じさせるトリオであった。(つづく)