美麗なるほとけ 館蔵仏教絵画名品展 /根津美術館
根津美術館が所蔵する仏教絵画の名品・珍品を集めた、魅惑の展覧会である。
冒頭に掲げられた文言には、こうある。
この強い自負を、何人も否定することは叶わない。唯一対抗できそうなのは、大阪の藤田美術館くらいだろうか。
それほどまでに充実したコレクションの核心部分に、いまなら触れることができるのだ。
日本の仏画の最高峰といわれるのは、院政期の作例。古めかしい言い方をすれば「藤原仏画」である。
院政期の仏画に対しては、本展のタイトルにも使われる「美麗」という形容がしばしば用いられてきた。リーフレットを飾る《大日如来像》(平安時代・12世紀 重文)は、まさしく美麗というべき作。本作をはじめとする院政期の仏画によって、本展は幕を開けた。
美麗な彩色や描写が、すぐれたコンディションで遺されている。平泉・中尊寺の仏像の内部に納入されていたために、美しい姿を保つことができたという。
「具色(ぐいろ)」と呼ばれる中間色の微妙なグラデーションに、目を奪われる。
どこを切り取っても、美しい。ひれ伏したくなるようなお像である。
《金剛界八十一尊曼荼羅》(鎌倉時代・13世紀 重文)。
見上げるほど大きいと同時に、描写は細かくて高密度。
そのため、ツイートでも触れられているとおり、単眼鏡を駆使して観たい作品である。スコープの奥には、思いのほかエキゾチック、むせかえるような濃密な気が漂っていて、見飽きない。
《金剛界八十一尊曼荼羅》に負けぬほど巨大な《兜率天曼荼羅》(南北朝時代・14世紀)は、「名品・珍品」のどちらかといえば「珍品」寄りのもの。まず、この図像自体に類例が少なく、貴重なのである。
南北朝期の仏画や仏像には、クセというかアクというか、とかく主張の強い作例が多くあって、時代の空気を大いに感じさせるし、驚かされることも多くて楽しいものだ。本作もその例に洩れない。
描き込み具合が、すごい。壮麗な御殿に住まうみほとけや衆生たちが、きわめて細密に、グリーンをベースとした極彩色と截金によって表されている。
そのどこをクローズアップしても、破綻は見つけられないどころか、「こんなところに孔雀が!」などと、次々に新たな発見ができてしまう。
この掛幅を前にして、弥勒菩薩に関する絵解きがおこなわれたのであろうが、絵の細かな描写を目で追うのに忙しくて、ありがたい講釈が右の耳から左の耳へどんどん抜けていってしまいそうではある……
尾形光琳の《燕子花図屏風》、古代中国の《双羊尊》などとともに根津美術館の「顔」といえる国宝《那智瀧図》(鎌倉時代・13~14世紀)。
滝そのものが信仰の対象になっている。そういった意味では、これまで挙げてきた仏画となんら変わりはない。
引きの状態で観ていると、滝は、幾筋かの白い線が静かに連なっているだけのようにみえる。余談ながら、この日はお昼に奈良の三輪そうめんをいただいてから来館したので、流しそうめんがスルスルと落ちてくるさまを、絵を観ながら想像していた。
だが、《那智瀧図》に近づいていくほどに、流れが岩に激突してスイッチするさまや、しぶきを上げ、渦を立てるさまに気づいていく。滝が、数えきれないほどの水滴や、肉眼では捉えられない水分によって成り立っていると、意識させられるのだ。
その激しさのなかに、自己をみつめなおす……すなわち、展示室に居ながらにして、仮想的な滝行ができてしまう絵なのであった。
奥の小部屋には、禅宗の仏画と高麗仏画。後者にちなんで《青磁蓮華唐草文浄瓶》(高麗時代・12世紀 重文)が取り合わせられていた。
もちろん、高麗青磁は今回、主役ではなく、高麗仏画の引き立て役には違いないのだが……個人的には会えて、よかった。わたしの愛するやきものなのである。
2階中央の展示室には白描図像、また仏伝や寺院の開創縁起を描いた絵巻が並んでいた。古写経の見返絵も、いわれてみるとたしかに、広義の仏画ではある。
礼拝するための像とはまた異なる、さまざまな「みほとけの絵画」を展覧して、本展はお開き。
——7月27日から8月25日までという、1か月に満たない短い会期の本展。
展示替えはないから、いつにしようかと、あれこれ思案するようなこともない。
すなわち、迷っている暇も、理由もないのだ。いますぐ南青山へ……そう言いたくもなる、至福の展示であった。