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寒いねと凍える夜に

もう一度服を着直す季節

1月も半分を過ぎ、2月の声が聞こえてきました。
昔、好きだった国語の先生が、一月は行く、二月は逃げる、三月は去ると言うんだよと教えてくれましたが、本当にそうですね。
(というか二月はお店のオープンですが💦)
同じように、二月の古語は如月。一度脱いだ服をもう一度着る季節だと教えてくれたのは、古典の先生でした。
もちろん、それは旧暦の事で、今で言うと三月あたりなので、確かに冬服をそろそろという時期ですが、新暦二月なんて、まだまだ褞袍や炬燵のお世話になる時期ですよね。
我が家では愛猫のスケキヨがどうやら通電したコタツが苦手なようで、ただの布団を掛けたちゃぶ台になっていたりします。スケキヨ💦

夜が長く、巣ごもりの季節

学生時代に習ったこと、正確には試験に関係の無い先生の与太話や、それこそ国語や古典の便覧で見知った事は、よくよく覚えたりします。
そういうものが不意に蘇ると、ハッとさせられた事は、割と多くの人が経験しているのではないでしょうか。
その中で、既にタイトルも、そして中学だった、高校だったか忘れてしまいましたが、ある作品が時折思い出されます。
その作品は恐らくは作家さんというよりも、どこかの大学の先生か、新聞記者さんのものだったと思うのですが文化というものは北方より来たるという内容でした。
もちろん、南方の国に文化がないというのではなく、北の国々、とりわけ極夜やそれに近しい事象の起こる地方では、どうしても冬期、夜が長くなり、また同時に極寒となります。農作業をしようにも土は氷り、昼は極端に短く、ただ家での作業のみが許される土地。
そういう所では、自ずと巣ごもりのような生活をするしかなく、そういう場所だからこそ、物語を紡いだり、音楽を作ったりという内向きな事柄に意識がいきやすいのだと作者は続けていました。

それだけではないけれど

物語や文化は北で生まれ、南に伝播していった。
もちろん、それは発祥論のひとつであって、語り部となった今では、物語を紡ぐ人たち、伝える人たちが北方独自でないことは体験的にも知っています。
インドには壮大なヴェーダがありますし、インド、バングラデシュにはバウルと呼ばれる風狂のうたびともいます。日本にも瞽女さんや琵琶法師もいますしね。
それでも、ふとロシアなどの壮大な交響曲やバレエ作品に触れると、さもありなん、と思ってしまいます。
モスクワの壮麗な、一歩間違えば装飾過多になりそうな宮殿や、チャイコフスキーのコッテリとしたバレエ音楽を聴けば、うんうんとなります。
雪の女王と霜の大公が支配する季節。人々は、家に閉じこもり、色んな事に思いを馳せながら、やってくる春を心待ちにし、あたたかい日射しに歓喜の歌を歌う。
人々の生活が文化の輪郭であればこそ。やはりその土地の気候風土が、生まれる作品や音楽に影響を与えないわけはありません。
それは、北国の民話に触れていても感じます。

北国の妖精たち

北方の、雪の女王や霜の大公(冬将軍)のお話も素晴らしいのですが、もっと身近な民話には、いわゆる集落や家々と深い変わりのある妖精たちに、ルサールカやヴィジャノーイという水霊が登場します。
ルサールカは美しい乙女の姿をしています。ヴィジャノーイはロシアの河童と言われることもある、一見カエル人間にも半魚人のような姿をしています。どちらも単純な水の精霊とは括れない所があり、ルサールカは若くして亡くなった女性の霊だと語られたり、ヴィジャノーイは水界の王ですが、祖霊信仰と結びつき、樹木にも宿るとされているのです。
(霊魂が天に上がる前、一時ですが、樹木に宿るという考え方があります)
また彼らは、迎夏の儀礼の中心的存在で、彼らの人形を作り持てなし、川に流すそうです。祖霊を迎え、そして供物やご馳走などでもてなし帰ってもらうことで豊作や厄除けなどを期待したのです。
水霊が司るものが水であり、水なくして人は生きられないことを考えれば、もっとも身近な精霊や神が、おなじく身近な祖霊と混じり合ってゆくというのは納得ではないでしょうか。

狐弾亭の1冊

 ロシアの妖怪たち
斎藤君子 著、スズキコージ 画 / 大修館書店

妖怪と括られていますが、ロシアやスラヴの妖精譚を集めた1冊。
彼の大国が社会主義時代に切り離そうとした土の匂いのする文化とそのお話。トルストイの民話集や、イワン王子の話や火の鳥などが有名ですが、それだけでは収まりきらない生き生きとした妖精(この本では妖怪)と人々の交わりが描かれています。
狐弾亭のブックカフェでもご用意しますので、開店、お立ち寄りの際には是非。

狐弾亭亭主・高畑吉男🦊

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