![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/91712413/rectangle_large_type_2_d66daaeccf81852f67b6b30bc07799c9.jpeg?width=1200)
わたしの町のお地蔵さん
お地蔵さんは、日本で最も親しまれた仏さんの一つです。滋賀県・木之本町などに三大地蔵と呼ばれる大きな寺院もありますが、大抵は街角や村外れの小さな祠(ほこら)にひそやかに納められ、地域あげて丁寧にまつられています。
こんにちはド・ローカルです。旧五国(摂津、播磨、但馬、丹波、淡路)からなり、多様な風土、風習が残る兵庫県には、ちょっと風変わりなお地蔵さんが点在します。お地蔵さんを巡る兵庫の旅、さあ、始めましょう!
住宅街に突然、首だけ地蔵 宝塚市
「首地蔵」。宝塚市小浜の住宅街に看板を見つけた。石段を上って首筋がゾクッ。頭だけの地蔵2体=冒頭写真=がこちらを見ている。
高さは共に1・3メートルと、かなりでかい。地蔵どころか、大仏の大きさ。首から上の治癒や合格祈願にご利益があるそうだ。
右の地蔵は「洪水で流れてきた」などと諸説あり、室町時代の文書にも、全国から参拝者あり―と記される。左は1977(昭和52)年に住民らが作ったものらしい。
東大寺によると奈良の大仏は5頭身の設計で、もし立ち上がれば約25メートルになるようだ。ということは、この地蔵に首の下があれば7メートルほどか、と考えたら叱られた気がした。宝塚だけに、歌劇トップスター並みに9頭身ですか。えぇっと…12メートル。
やきもち地蔵 願い事焼き餅供えて 神戸市北区
![](https://assets.st-note.com/img/1669298423897-mZbue1jpk9.jpg?width=1200)
有馬街道沿いの交差点付近に「やきもち地蔵」(神戸市北区山田町下谷上)の大看板が立つ。嫉妬心を治めるお地蔵さま? それとも恋愛成就? 夫婦円満?
所有する寿福寺に尋ねると、いずれも不正解。名前は「焼き餅」に由来するという。旧正月に現れたお地蔵さまに、村人が焼いた餅を供えたところ、喜んだお地蔵さまが願いを一つかなえてくれた伝説が残る。以来、一願成就で知られ、遠方からの参拝者も多いとか。
お地蔵さまと言っても、顔や胴体部分がなく、前掛けのついた舟形の石が置かれているだけ。その昔、お地蔵さまが複数の村人の夢枕に立ち「橋を修理するように」と告げた。村人が修理に取りかかったときには今にも崩れそうだったが、もう少しのところで大事に至らなかった。橋のたもとから出てきた舟形の石がお地蔵さまに見え、祭ったのが始まりとされる。
実は2体あるのをご存じだろうか。一時期紛失して新しいものを作ったが、その後、以前のものが戻ってきたためという。同寺の総代(73)は「村人が大切にしてきたお地蔵さん。お願い事をするときは、感謝の気持ちを忘れずに」と話す。
堂内ぎっしり千体地蔵 丹波篠山市
![](https://assets.st-note.com/img/1669298633937-mNQrINAqDM.jpg?width=1200)
右も左もお地蔵さん! 小さな堂内を埋め尽くす、その数と密度に圧倒される。丹波篠山市日置で守り伝えられてきた「千体地蔵尊」。民衆のさまざまな願いが凝縮された「祈りの空間」である。「珍景」などというと叱られそうだ。しかし、目を驚かせる「奇観」ではある。
お堂は高さ約2・1メートル、幅約0・9メートル、奥行き約2メートル。像高50センチほどの中央の石造りの地蔵は、徳川吉宗が江戸幕府の8代将軍に就いた享保元(1716)年秋に建立された。周囲を取り囲むのは、高さ約14~17センチの陶製の地蔵。三方の壁にある棚に何段にもずらりと並ぶ。いつごろ、これだけの数の地蔵がそろったかは不明だが、幕末には既に千体が安置されていたようだ。
「千体仏」は全国各地に点在する。特に、京都市の蓮華王院三十三間堂に並ぶ金色(こんじき)の千手観音像1001体(国宝)が、荘厳華麗さで名高い。
「日置のお地蔵さんは千体に少し足りないのでは」と、お堂を管理する地元の男性(73)。焼き物の小さな地蔵の背面には、奉納した近隣の村人の名前が記されているが、仏像は入れ替わりがあるようで、「私の祖父が戦前に納めた像も並んでいる」と男性。
この千体地蔵尊には「子授け地蔵」の異名もある。伝承によれば、子宝に恵まれない女性が千体地蔵へ毎日参拝。「どうか赤ん坊ができますように」と懇願すると、ある日、「1体持って帰って家で拝みなさい」とのお告げが。その通りにすると無事に懐妊・出産。女性はお礼に新たな地蔵像を作り、お堂へ納めたという。
昔は家の跡継ぎが求められ、現代以上に子宝を祈願する女性が多かったに違いない。そんな切実な願望や感謝の念がこもった「場」でもある。立ち去る前、無数の仏さまを前に手を合わせた。
お地蔵さんと気軽に呼びますが、正確には地蔵菩薩。釈尊の入滅後、弥勒(みろく)が現れるまでの“無仏”の世界で衆生を導き救済する大役をになっています。地蔵頭に地蔵顔。その丸く、にこやかな姿が愛され多彩な説話を生み出してきました。
地獄に落ちる女人の身代わりになる。賽(さい)の河原でさまよう子らを鬼の手から守り抜く。危機に瀕(ひん)した当事者を救いだす。そんな功徳から地蔵への信仰は強まり、「身代わり地蔵」「延命地蔵」「子育地蔵」から戦国時代は「矢取地蔵」さらには田植えをしてくれる「泥付地蔵」まで登場します。
兵庫北部の但馬地域には、カラフルにお化粧をするお地蔵さんが祭られています。
カラフルな化粧地蔵 豊岡市
![](https://assets.st-note.com/img/1669299607052-w7Fn9tkTtd.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1669299583519-vnPWpMugdJ.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1669300114301-O8VZHA1rOz.jpg?width=1200)
豊岡市出石町の弘道地区に、カラフルに彩色された「お地蔵さん」が祭られているという。城下町周辺を巡ると、顔を真っ白に塗られて赤い口紅を施されたもの、太い眉が描かれたものやほほ笑んでいるような表情のもの、赤や黄の後光が差したものも。「化粧地蔵」と呼ばれ、江戸時代の年代が彫られたものもある。隣保ごとに地蔵当番を設け、大切に守り続けてきたそうだ。信仰とともに、地域の文化として長く根付いていることを知り、ほっこりした。
化粧地蔵の多くは毎年、地蔵盆の際に、お色直しが行われるという。コロナ禍で規模は縮小されたが、今月23日も、弘道地区のあちこちで地蔵が祭られた。
同町寺町の正福寺では、前日に門徒が協力して全部で15体あるという地蔵を洗い、クレヨンで色を塗り直した。前掛けも新調し、当日は大きな3体を特設の祭壇に安置。門徒の女性らが10円玉のさい銭を手に参拝する子どもたちを出迎えた。
同町寺町の「やまもと酒店」の店先には、1803(享和3)年と彫られた子育て地蔵があり、22~24日には店内に飾った。同店の山本富子さん(73)によると、義父が若い頃、山で木を切っている時に掘り出した地蔵だという。丁寧に洗った後で、昔はチョークで、今は絵の具で色を塗り直す。「駄菓子を買う子どもたちが手を合わせていくんですよ」と、富子さんは笑顔で話す。
市内では、豊岡市街地や城崎温泉街でも化粧地蔵を見かける。ただ、圧倒的に数が多く、集中しているのが弘道地区だ。
弘道コミュニティ協議会は2018年、地区内54カ所の地蔵の写真や由来を一覧で紹介する「お地蔵さんマップ」を製作した。同会まちづくり部長の男性(58)によると、文献や地元住民からの聞き取りを基に現存する地蔵を調べ上げ、一つ一つ現場を巡って写真を撮影。2年かけて仕上げた労作だ。
マップによると、地域で最も古いもので、江戸時代の1692(元禄5)年の年代が彫られたものがある。54カ所中37カ所が彩色された「化粧地蔵」という。
住民に話を聞くと、隣保ごとに地蔵当番があり、花や水の世話が続けられているそうだ。「畑や山で発見された」「川から流れてきた」など由来もさまざまで、「子どもの安全、命を守る」「交通安全」「合格祈願」など願う御利益の中身も多様だ。
地蔵盆の時期に、お色直しを行う理由について、小松さんは「1年に1回、洗ってきれいにして、色を塗り直してあげなあかん、ということではないか」と解説してくれた。
化粧地蔵は京都から伝わったとされる。弘道地区に数多く残るのは、京都に近く、〝但馬の小京都〟と呼ばれる出石の地域性との見立ても。小松さんは「これだけの数が大切に祭られてきたことに、驚きやつながりの深さを感じた」と説明する。その上で「このような風習や地域の祭りを次世代の子どもたちにも伝えていきたい」と話していた。
▼京都や福井にも分布
京都の地蔵盆が起源、各地に広まる
色とりどりにお地蔵さんを彩色する「化粧地蔵」は、豊岡市内だけでなく、京都市や京丹後市、福井県小浜市などにも存在する。
京丹後市では化粧地蔵と化粧なしの地蔵がいずれも存在するそうだ。小浜市では市街地に近い沿岸部に少なくとも約80カ所ある。また、少し山手の地域にも分布し、1760年代に書かれた文献には化粧についての記述が残るという。
地蔵などに詳しい金沢大学の清水邦彦教授(56)=日本民俗学=によると、地蔵盆はもともと、旧街道の入り口にある地蔵尊を巡る「六地蔵巡り」を模倣し、地蔵祭として京都で始まった。六地蔵は顔が白塗りで、口紅だけ赤く塗られる。京都では彫りの浅い石仏を祭るところが多く、石仏を地蔵に見立てようと白塗りにし、目鼻を書いたのが起源とみられるという。
京都の地蔵盆の始まりは江戸時代の1650年ごろとみられ、それ以降に全国のいくつかの地域に広がったと考えられる。化粧に定型があるわけではなく、清水教授は「地蔵盆を子どもが担う地域も多いことから、彩色も自由になっていったと解釈するのが自然ではないか」と分析する。
慰霊の思い込めた「やすらぎ地蔵」 洲本市
![](https://assets.st-note.com/img/1669301265931-qi8Oh44HYF.jpg?width=1200)
阪神・淡路大震災の犠牲者を弔おうと、洲本高校定時制(生徒数85人)の生徒たちが、手のひらサイズの地蔵を作り続けている。震災後間もなくして始まり、2015年度で約900体になり、最終的には犠牲者数と同じ6434体を目指す。
地蔵は陶製で、直径6センチ、高さ11センチ程度の円筒形。「やすらぎ地蔵尊」と呼ばれる。毎年5月に同高である陶芸教室で、希望した生徒や保護者、地域住民が1人あたり2、3体を作る。15年度は101体が仲間入りし、計898体となった。
形は共通だが、表情は一人一人が自由にデザインしており、ほほ笑んでいたり、目を閉じていたりとさまざまだ。
同教室で指導する市内の陶芸家が知人の僧侶の発案に賛同し、生徒らに制作を呼び掛けた。当初は大火があった神戸市長田区の土が手元にあり、在庫があったうちは練り込んで焼き上げていた。
生徒会長の3年生女子生徒(18)は「今見てもすごい数の地蔵なのに、この何倍もの人が亡くなったんだと思うと胸が締め付けられる。目標数に到達しても、悼む気持ちを忘れないようにしたい」と話している。
<ド・ローカル>
1993年入社。「地蔵の十福」という言葉があります。お地蔵さんを敬えば十の福徳があるという意味す。女人泰産から始まり除衆病疾、聡明智恵、財宝盈溢(えいいつ)、衆人愛敬、穀米成熟…と続きます。今様にいえば、出産・子育て環境の整備、難病完治、英知の尊重、景気回復、国際平和、冷害退散・豊作祈願…とでもなるのでしょうか。お地蔵さん頼みの難題。いつの時代もあふれています。
#宝塚 #お地蔵さん #やきもち #千体地蔵 #徳川吉宗 #阪神・淡路大震災 #豊岡 #丹波篠山 #化粧