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散文山行 #03 ソロ登山で口ずさむBiSH

ひとりで登山するって、何が楽しいんですか?

登山素人の若者を山に連れて行くことが、たまーにあります。40代のおじさんと山で遊んでくれるというだけで有り難い存在!なるべく楽しんでもらえるよう、辛すぎず、景色が良く、美味しい山飯付きの計画で、おもてなし登山します。必死です。笑
複数人でワイワイハイキング。大抵、楽しい印象を残せるものですが、そこでふと、前述の疑問が投げかけられるのです。「みんなで山に入るのは楽しいのは分かりましたけど、ひとりで山に入って何が楽しいんですか?」と。

その魅力を言葉にしようと思うと、意外とひとことで説明するのが難しい。行けばわかるさ、も投げやりすぎる。そこに山があるから、でははぐらかし過ぎか。
なので試しに、自分の感じているソロ登山の魅力を、言語化する実践をしてみましょう。

職場の後輩たちと。足元とパワハラに注意。

自然と対峙するための孤立

先日、自然と不自然(人工)に関する拙文を書きましたが、自然とはつまり、人の意思が届かない場所のこと。それ自体が、人知の及ばない畏怖すべき存在。登山というアクティビティが自然に近づく魅力を追い求めるとするならば、対比する環境はたぶん「社会」なのではないかと思い至りました。究極的に自然と対峙したいなら、社会から距離を置き、集団からの「孤立」が必要なのです。

孤立とは、集団から独立した状態のことで、そこに良し悪しの評価はありません。(孤独は寂しさを、孤高は誇りを含みますね)人と人は、寄れば関係性が生まれ、集まれば社会となります。剥き身で自然に向き合う魅惑的な体験を求めたとき、社会から距離を取り、ひとりになることを選びたい欲求があるのかもしれません。自然との対峙を楽しむための積極的な孤立。ゆえの、ソロ登山なのです。

孤立は、自由です。進むも、止まるも、戻るも自由。100%マイペース。安全であることを守れば、何を食べてもいいし、何をどう楽しんでもいい。前後に人がいなければ、鼻歌だって歌えちゃう。コロナ禍でハマって、惜しまれながら解散したカリスマ的アイドルBiSHのお気に入りを、40代おじさんが口ずさむのだって自由なんです。(もし山でそんな男性に会っても、気づかないふりをお願いします)そんな小さな自由を、束の間謳歌できるのも良いところですね。気分を上げて、孤立を極め、いざ自然と対面です!

こんな道、鼻歌も出るよね。

逃れられない山の中の社会性

ところが。ソロ登山の別の魅力の一つに、他の登山者との交流があります。永遠のシャイボーイとしては、気さくなコミュニケーションはなかなかハードルが高いですが、それでもすれ違いざまの挨拶だけでも気分がいいし、小屋やキャンプ地での刹那的な交流は楽しいものです。孤立は孤独と隣り合わせ。山の中のレアな社会性の誘惑には抗えません。結局人間、他人との関係性を求めてしまうのです。

さて。ここまで書いてきましたが、どうも山友達の少なさの言い訳を訥々と語ってるようにも思えてきました。誰かと一緒に歩く。感動や苦労を共にすることは、何物にも代え難い体験ですよね。つまり、誰が一緒にハイクへ行きましょう、というお誘いです。道中、BiSHトークしましょう。

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「散文山行」は、登山趣味歴10年のKによる思考実験的な山エッセイです。
不定期更新です。

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