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08’西武。21’阪神。そしてプロ野球。

 プロ野球ファンは誰しも、自分が野球を見始めた「あのシーズン」に見た、忘れられない「あの試合」という原体験を持っていると思う。それは普段は意識されなくても、ある試合、あるワンプレーを見た瞬間に突然脳裏に鮮やかに浮かび上がる類いのものである。

 筆者にとってのそれは2008年、西武ライオンズ対読売ジャイアンツの日本シリーズであった。小学4年生だった私は初めて野球のためにテレビに張り付き、第1戦から第7戦まで全試合を頭から終わりまで見た(当時私は21時には寝るのがルーティーンであったが、この時ばかりは両親に頼んで夜更かしをしたほどである)。その中でも特に西武が逆転勝ちで日本一を決めた第七戦は少年に大きな衝撃を与えた試合だったと思う。

 なぜ13年前の日本シリーズ第七戦を突然思い出したのか。ことは昨晩の中日ドラゴンズ対阪神タイガース18回戦、その九回表の阪神の攻撃であった。2-2と同点の最終回、阪神打線は中日の絶対的守護神であるR・マルティネスから1点をもぎ取り、劇的な勝利を収める。この九回の攻撃中、筆者の目には既に「あの試合」が重なって見えていたのである。細かく見ていくと両者のシチュエーションには異なる点も多い。しかし、「あの試合」と昨晩の一戦には明らかに同種のものが詰まっていたし、それは”強いチーム”、”ここぞで勝てるチーム”に必要な、きわめて何か重要な要素であるように思えてならない。


「あの試合」

 2008年11月9日、東京ドーム。この試合に勝利すれば西武にとって4年ぶり、巨人にとっては6年ぶりとなる日本一が決まる一戦であった。それぞれ西口文也・内海哲也が先発したこの試合は巨人が2点を先取し優位に進めるも、西武がボカチカの代打ホームランで追撃。1点差のまま終盤へ入っていく。

 ゲームを分けたのは八回表の攻防であった。この回西武は2点を挙げて逆転。抑えのA・グラマンが2イニングを零封し逃げ切った。この八回表の攻撃が実に見事だったため、少し丁寧に振り返ってみたい。

 まず相手投手である。八回表のマウンドに上がったのはこの年ブレイクしてチーム最多の68試合に登板し、左腕の山口鉄也と共にブルペンを支えた越智大祐であった(山口・越智が「風神・雷神」コンビと呼ばれるのは翌年からである)。暴投数がリーグ最多の15と制球面でまだ粗削りではあったが、リリーフながら奪三振が100を超えるなど、角度のある速球と鋭く落ちるフォークは当時既に打者を圧倒するものを持っていた。この日は七回から登板、走者を背負うも二つの三振を奪うなど踏ん張って0点に抑え、回を跨いだ2イニング目だ。この回跨ぎが巨人にとって災いする。先頭の1番・片岡易之に投じた2球目、146km/hストレートは大きく抜け、デッドボール。初球、2球目と続けてストレートが抜けており、越智に僅かな感覚のズレが生じていたことは明らかだった。リリーフ投手が回を跨ぐには、一度吹かしたエンジンを一旦切り、もう一度入れるという作業をしなければいけない。これは想像以上に難しいことであり、若い越智もこの時僅かな緩みが生まれたのか、小さな隙を見せてしまった。

 その小さな隙を見逃さなかったのが西武打線である。「打線」とはいうが、こうした優れたチームにとっては打線を形成するのは打者だけではない。走者・打者・ベンチ、これらが一体となって連動しながら1点を奪いにいくのだ。2番・栗山巧への1球目で片岡は盗塁を敢行、見事に成功させる。牽制球を挟まず、1球で得点圏への進塁を許してしまったのは越智の落ち度だが、この場面で初球から走った片岡を称賛するしかないプレーである。「無死」、「1点差」、「ビハインド」、とセオリーでは盗塁してはいけない条件が全部盛りだ。「してはいけない」というのは万が一にもアウトになってはいけないという意味である。この時片岡が出塁した瞬間には既に周到な準備、100%成功できる公算とその根拠があり、気持ちの整理もついていたということである。いつであったか、片岡は「盗塁に必要なのは勇気」であると言っていたのを記憶しているが、このシーンでもその勇敢さが表れたといえよう(勇気とは恐れるべきものと恐れるべきでないものを正しく判別する徳であるとソクラテスはいうが、まさにこのことではないだろうか)。

 無死二塁、打者は引き続き栗山である。この年の栗山は167安打を放ち片岡と並んで最多安打に輝いたリーグ屈指の巧打者であった。加えて、栗山は左打者である。ヒッティングを指示して、引っ張ってゴロを打たせ進塁させるという作戦も十分に可能であったはずである。しかし、渡辺久信監督は手堅くバントを選択。1球で簡単に送りバントを決めるのである。これも実に見事なワンプレーだ。プレッシャーのかかる場面であっさり作戦を成功させ、自分たちのペースで一死三塁というチャンスを作ってクリーンナップに回す。恐らく栗山にしても打席に入る前からこうしたシチュエーションをしっかり意識し、イメージできていたのだろう。

 続く打者は3番・中島裕之。第1戦・第2戦でホームランを打っている。東京ドームにチャンステーマの前奏が響く。中島はすぐに打席に入らず、応援を聴くかのようにして、たっぷりと間をとってからゆっくりとバッターボックスに後ろから入る。その初球。アウトローボール気味にコントロールされた144km/hのストレートを強振せずちょこんと合わせると打球はサードへの高いゴロに。三塁手・小笠原道大が素早く処理するも、打った瞬間スタートを切っていた片岡の本塁突入が僅かに早く、セーフ。同点である。ノーヒットで、それもたった5球の出来事である。あっという間に追いつかれてしまった越智の負ったダメージは大きく、後続に2四球と痛恨の適時打を許し負け投手となってしまう。


「2021年9月21日 中日vs阪神」

 昨晩の阪神の攻撃はそれと比較してどうだろう。

 舞台は名古屋・バンテリンドーム。最多勝争いを繰り広げる柳裕也・秋山拓巳が先発したゲームは阪神が先行、中盤以降に中日が追い付く形で2-2の同点で最終回を迎えた。九回表、マウンドには中日の守護神、R・マルティネス。今シーズンはこの日までで37試合に登板して18セーブ。先日広島戦で5失点と打ち込まれたにもかかわらず、依然として防御力1.98と抜群の安定感を誇る。特に真上から投げ下ろされる豪速球は威力抜群、四球で自ら崩れない限り難攻不落といったストッパーだ。

 対して、阪神打線の先頭打者は途中出場の5番・島田海吏。下位打線に向かう打順であり、不調の打者も並ぶ厳しい条件である。そんな中、島田は二遊間へゴロを転がしセカンドへの内野安打で出塁する。ボールを慎重に見極めてカウントを整えつつ狙い球をシャープに打ち返す、出塁だけを考えた打撃だ。マルティネスの球は速いが、自分の足ならなんとか転がせばチャンスはある、そういった気迫が感じられる内容だった。

 島田は続く6番のJ・サンズの打席の2球目で盗塁を仕掛ける。木下の送球は高く浮き、盗塁成功。無死二塁。これもまた、セオリーなら盗塁してはいけないシチュエーションといってよい。無死、同点、さらに中日の捕手木下は盗塁阻止率リーグナンバーワンである。確かに今シーズンの阪神はこうした緊迫した場面で大胆な盗塁を幾度も仕掛けてきたが、この絶対に失敗できないケースで浅いカウントから単独スチール、しかもそれをきっちり決めるとは。思わず鳥肌がたった。「あの試合」の片岡同様、島田も はなから行くつもりで万全の準備をしていたに違いない。マルティネスも牽制球こそ投じていたが、打者に集中していてクイック投法はしていなかった。阪神サイドからすれば見込み通りかもしれないが、まともなチームなら走ってこない場面、投手からすれば打者に集中するのがセオリーである。マルティネスを責めるわけにはいかない。

 サンズはここぞの勝負所に強い好打者である。得点圏打率は2年続けて優秀で、何度もバットでチームを救ってきた。しかし、苦手なタイプは昨年からはっきりしている。速球に弱いのだ(内角に弱いと評価する解説者が非常に多いが、ほとんど印象論といってよい。内角でもスピード・キレが無い球は上手くセンターから右方向へ運ぶ)。粘ってカウントを作って最後に投げさせたスライダー系統を仕留める、といった駆け引きは抜群に上手いが、シンプルに真っ直ぐのスピードとキレで押してくる投手には苦しい。マルティネスはまさにそのタイプである。さらにまずいことに、このところサンズは打撃の調子を落としている。直近10打席以上ヒットが出ていない。無死二塁になった時点で、筆者は「絶対にバントの上手い選手を送って一死三塁を作るべきだ」と感じた。それこそ、あの日の栗山のように。ところが矢野監督は動かない。サンズを信じ、任せたのである。するとサンズはその期待に応えるかのように、追い込まれてからもファールで粘り、フルカウントからの8球目、インコースの球をなんと右方向へ持っていったのである。この進塁打で一死三塁。ベンチはサンズが場面に合った仕事をしてくれると信頼し、サンズは求められている役割を理解して、きっちりとそれを果たしたのだ。記録上は単なる内野ゴロの進塁打でしかないが、それ以上にこの凡打の価値は大きい。選手一人一人が、外国人選手に至るまで勝利のために同じ方向を向き、自分の成績や給料など無視して必死に、献身的にプレーしている、私たちはそういうチームですよという強いメッセージを筆者は受け取り、胸が熱くなった。これはまた、選手・監督コーチ間の意思疎通がしっかりとれていることも窺わせる。

 サンズが繋いだ一死三塁のチャンスで打席に入ったのは7番でスタメン出場していた木浪聖也である。この時点で代打のカードはまだ糸井嘉男・大山悠輔と2枚残っていた。ここでどちらかを切るだろうと思ったが、矢野監督は再び筆者の予想を裏切り、木浪をそのまま打席へ送り出す。すると木浪は2球目のストレートを迷いなく打ち返しレフトへの犠牲フライ、これが勝ち越しの決勝点となった。結果的に上手くいったから良かったものの、これでもし木浪が凡退していたら矢野監督は当然「なぜ代打を切らなかったのか」と猛攻撃を浴びることが目に見えている。恐らくは何らかの根拠を持って木浪に託したはずだ。先日の巨人戦でマルティネス同様の豪速球ストッパーであるT・ビエイラから四球を選んだようなしぶとい打撃を期待したのか、そもそも速球に強いと評価されているのか、逆境での強さ・負けん気の強さを買われて六回裏の守備のミスを取り返すようなバッティングを期待したのか。実際のところを知ることはできない。ただ、木浪はじっくりボールを待つことなく、ファーストストライクから思い切り仕掛けていった。恐らくだが、これも監督や打撃コーチなどと確認が取れており、はじめから早いカウントで勝負する、自分が決めると覚悟を決めて打席に入ったのではないかと勝手に予想している。


勝てるチームの「打線」、そして…

 2008年の西武打線と2021年の阪神打線を成績だけ見て単純に比較することは、はっきりいってあまり意味がないだろう。翌年ほどでないにしても2008年は打者有利なシーズンであったし、なにより2021年シーズンはまだ途中である。ただ、極限状態で垣間見せたあの集中力、得点力には、何か非常に似通ったものを感じたのだ。二つの打線はどちらも長打力に長けている。二桁ホームランを記録している選手が何人もスタメンに並んでいる。それでも、ここぞの場面、どうしても1点が欲しい場面では誰も大振りしないのだ。出塁する者、繋ぐ者、返す者。それぞれがそれぞれの役割をきっちりと理解し、果たす。そして何より積極的だ。僅かな隙さえ見逃さずに大胆に走ってくる。走者がプレッシャーを与えることで投手は投げづらくなり、打者はますます勝負強い打撃ができるようになる。「打線が点ではなく文字通り線になっている」といった表現をしばしば目にするが、それはまさにこうしたチームを形容する表現ではないかと思う。強いチームのかくあるべしといった姿。攻撃野球の理想形である。

 いや、この際はっきり言おう。筆者は所謂「フライング・レボリューション」が嫌いである。「バレルゾーン」も「2番最強打者論」も「バント不要論」も見たくない。なぜなら、それらは”1番から9番まで全員ホームランバッターなら最強だよね”という考え方が根底にあるからだ。同じ体格の選手を9人揃え、全員が一様なバッティングをする…。極度に最適化された、あまりにつまらない野球がすぐそこにある。筆者は「強いチーム」が見たいのではない。「面白いチーム」の「面白い野球」が見たいのだ。我々は一人ひとり体格も違えば得意不得意も違う。野球選手も同様だ。各々が違う中で各々の個性を発揮し、役割を全うする。そういう多様性に富んだ野球の方が絶対に面白いはずだ。同質な選手が同質な打撃をする野球はペッパー君にでもやらせておけばよい。野球選手は機械ではない。刻一刻と変わっていく極限状態の中で、一人ひとりが自分に何ができるか考え、精一杯考えてプレーする。そういう知能戦の一面、水面下での駆け引きを楽しむのがプロ野球の醍醐味である。そして、そうした楽しみを大いに与えてくれるのが2008年、「あの試合」の西武ライオンズであり、あるいは昨晩の阪神タイガースであると思う。

 1973年に野球殿堂入りした哲学者・教育家の天野貞祐は1936年にこのような言葉を残している。

 野球のチームは生きた全体を成すものでそれにおいて最重要なことは全体の調和である。如何なる卓越した選手がいても調和の無いチームは強力ではあり得ない。調和があるというのは各選手がその個性を没却する意味ではない。否、各選手がそれぞれの持ち場においてその個性を発揮すればするほど全体精神が躍動しチームが強力となる。(天野貞祐『天野貞祐全集第一巻 道理の感覚』1971年 栗田出版会)

 100年近くが経過しても、まったく意味を失っていない指摘である。真に優れたチームは個性的であり、故に調和的であり、従って強力である。いや、少なくとも、筆者はそうであってほしいと思っている。そうでなければ、野球がこれほど多くの人を惹きつけるはずがないのだから…。

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