茂木健一郎さん 「脳と仮想」を読んだおじさんの仮想と酒の肴
テレビでよく拝見している茂木さんの本。
脳科学者でいらっしゃる、とは知っていたものの、おじさんはテレビでアハ体験を紹介していた人、との印象がほとんどでした。今回、本を通じて学者としての研究、言説について初めて触れました。
まず、本を読み進める中で茂木さんという人はとても面白い人だなと感じました。
分かりやすく、触れやすい流れがある一方で、特に語りたいというか、深淵に触れようとするときは読み手を突き放すようなスピード感や複雑性が現れる。
楽しく読んでいたら、考える場面に巡り合って、それを重ねる中で茂木さんの思考がスピードが上がっていって、「茂木さーん、待ってー」とおいて行かれそうになる。もしお会いしてお話したとしたら、こんな感じになるのかも、そんな想像をしました。
でも、「茂木さん、待ってー」となりつつも、不快な感じはしませんでした。なんていうか、好きな分野のことをすごく熱量を込めて話しているのを聞くと、内容をつかめなくても楽しい気分になる、みたいな感じでしょうか。これもお人柄なのかもしれません。
本の内容について、おじさんなりの理解についてメモ。
私たちが捉えられるのは、現実ではなく仮想である。
もちろん現実は存在するんだけど、それを見て、こういう事、と脳にしまうという点において、私たちが理解した(つもり)なのは仮想。
科学万能という思いに私たちは囚われていたけど、化学は現実を便宜上切りとったとしたモデルを分析している。飛行機や車をつくるには便利で必要なことだけど、それをもって世界のすべてを知ることは出来ない。
私たちは仮想できるから宇宙の果てまで思いを馳せることが出来るけど、同時に脳から出ることも出来ない。
でも、この脳の仮想が個性に繋がる。
色の好みが違うとか、映画をみて感動するポイントが違うとか、犬が好きとか猫が好きとかあるじゃないですか。それって好き嫌いって言われるんですけど、そうではなくて、見え方や感じ方が根本的に違っているのかもしれない。だって、全く同じに見えて、全く同じに感じたら、同じ人になっちゃう。勝手に、自由に仮想するから別人。
この違いの認識が、意思とか魂に繋がると思うんですが、結局これって何なんでしょうね。物質としての脳については分かっているのですが、脳を持つ私たちが、なぜこのように意識をもち、魂を感じるのかは分からない。なぜ、「我思うゆえに我あり」、となるんでしょう。
数多の宗教家、数多の哲人がたどり着く課題である、私たちの意識、魂、存在について、「分かる」日が来るのでしょうか。
おじさんは個人的に来ない気がしています。でも、もしそれが来たとしたら、その時人類は自分たちをどう見るようになるのでしょう。
とりとめもないお話でした。
でもおじさんになって思うのは、この「よく分からない」が面白いという事。若い頃は「分からない」が嫌で、答えがないものを嫌っていたように思います。
これって味覚に似ている気がするなあ。若い頃ははっきりとした味が好きで、おじさんになると奥行きのある味が好きみたいな。
味覚と思考には、ファストフードと酒の肴に似た関係がある。とかなんとか、どなたか真面目に研究したら面白いかもしれない。それこそ、酒の肴にぴったりなお話しだと思う。