芥川龍之介の『少年』をどう読むか②「道の上の秘密」
僕の母は狂人だった……。そんなキャッチーな言葉で始めれば、「保吉もの」も少しは真剣に読んでくれただろうか。
僕の母は狂人だった……キャッチーな言葉で始まった『点鬼簿』が『歯車』に自叙伝として現れ、吉田精一とかいう、まあ現代で言えば柄谷行人程度のおっちょこちょいによって「保吉もの」が身辺雑貨的私小説として貶められたことによって、「保吉もの」はまるで原稿料稼ぎの余技のような、真面目な評論の対象とはならないような扱いを受けて来たのではなかろうか。
誰かのずさんな読みで作品は簡単に涛される。その誰かが門外漢か阿保であるかには関係ない。有名人であれば誰でも、そういうことが出来る。再評価の試みは並大抵のことではない。なんなら和歌山カレー事件の被疑者は冤罪だろう。しかし死刑判定は覆ることは無いだろう。だから吉田精一の罪は深い。私は吉田精一が莫迦であるとは思わない。柄谷行人も馬鹿ではなかろう。しかしそうした一見知的な人たちが何故か近代文学を前にすると見事にアホになる。一部分を切り取ると見事にアホなのだ。
この第二章「道の上の秘密」の書き出しは、第一章で「そんなことはどうでも好いい」とされた枕に連なる。
両国は本所と深川の間にある。これは、『あばばばば』において、関東大震災による津波で壊滅的被害を受けた鎌倉の在りし日が描かれたこと、その設定を度々洪水被害を受けていた阿蘭陀の風俗画が象徴していることに気が付かなかった読者の為に、もう少し俗な、分かりやすい丁寧な枕を置いたと見るべきなのだろう。
しかし解りやすさは読者の興味を削ぐ。芥川は読者の興味を引き付けるために「秘密」といい「考えて御覧なさい」という。「道の上の秘密」とは何か。つうやは考えろという。この言葉は読者にも向けられている。
迂闊なキリスト教徒ならすかさず「かなり太い線が一すじ」とあるのを捉えて、ヴィア・ドロローサだ、イエス・キリストが十字架を背負って歩いた苦難の道だ、これは芥川のパッションの暗示だ、とでも考えるのであろうか。ここは芥川が意地の悪いところを出している。
二本目の線を後出しにしてくる。最初から二本の線を指し示せばいいものを、順に出してくる。そして保吉が赤ニシンを使う。そういう道筋で考えてしまうと答えは見つからないよという方向に読者を誘導する。この線は誰かが何らかの意図をもってわざわざ引いたものだという前提を置いて、そこから先を考えさせようとしている。しかもイエス・キリストの苦難の道を思い浮かべたかもしれない読者をからかうようにわざわざつうやを「Delphi の巫女」、キリスト教の現れる前の古代ギリシャの神に仕えるものにしてしまう。つうやはフランス人の宣教師と対になる。自然、神託めいた深遠な道の上の秘密が説かれることが期待される。
しかし恐らく芥川はここではもう種明かしをしている。種明かしをしているものの、保吉にはまだ気づかせない。また「逆」をやるつもりだ。
服膺とは心に留めて忘れないことだ。なんだ「轍か」と恐らく気が付いていた読者の「逆」をやる。これは村上春樹さんの『クリーム』、あるいは芥川龍之介の名作『トロッコ』の意匠ではないか。泥だらけの荷車など眼前にはない。なんだ「轍か」と気が付いていた読者は、自分が何一つ碌にわからない人間であったことを思い知らされたはずだ。それのみか、自分は何か服膺してきただろうかと問い直さずにはいられないだろう。
若い日、私はたまたま見上げた巨大なクレーンのその圧倒的な大きさと力に圧倒されたことがある。しかしそんなことはすぐに忘れてしまう。いつの間にか自分が巨大なクレーンにでもなったかのように振舞うことさえある。しかし所詮自分は機関車ではなくトロッコに過ぎない。その轍の幅は同じでも高級自動車ではなく泥だらけの荷車に過ぎないのだ。
なんだ「轍か」と読者にこっそり先に気づかせた芥川は、なんだ「轍か」と解ったつもりにならないhappy fewを求め続けていた。三島由紀夫も、村上春樹も。
何一つ碌にわからないのは芥川ばかりではないが、分かったつもりの人のいかに多いことか。そして私の本を買う人のいかに少ないことか。それで近代文学を分かろうとするなんて、到底無理だと気が付かないだろうか。
吉田粗一なんか読んでも無駄だ。
[余談]
脱糞するくらい驚いた人は幸いである。「クリエイターの推奨」って画面の下の方にあるの知ってる?
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