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谷崎潤一郎のどこが近代文学なのか⑪ ひねくりまくり

 谷崎生誕の地は、当時の東京でもっとも賑わいを見せていた場所だった。今もその名残は多少はある。雰囲気だけは残っている。近所の図書館にはささやかながら谷崎潤一郎特集コーナーが常設されている。大都会である。谷崎はここで丁度『彼岸過迄』の田川敬太郎が憧れたような江戸の風情が残る粋な生活を過ごしたはずだ。

 要するに敬太郎はもう少し調子外れの自由なものが欲しかったのである。けれども今日の彼は少くとも想像の上において平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の湿っぽい空気がいまだに漂っている黒い蔵造りの立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍ずつ蠣殼町の水天宮様と深川の不動様へ御参りをして、護摩でも上げたかった。(現に須永は母の御供をしてこういう旧弊な真似を当り前のごとくやっている。)それから鉄無地の羽織でも着ながら、歌舞伎を当世に崩して往来へ流した匂いのする町内を恍惚と歩きたかった。そうして習慣に縛られた、かつ習慣を飛び超えた艶しい葛藤でもそこに見出したかった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 これは殆ど谷崎を念頭に置いたような書きっぷりではないかと疑ってみる。だがまあ実際は関係はなかろう。少しくらいは接点があっても良さそうなものを、夏目漱石の方ではずっと谷崎を無視してきた。あるいは批判しないまでも漱石は谷崎が嫌いなのではなかったのかとさえ思えるくらいだ。

 この『途上』など、実際に金杉橋から日本橋蛎殻町迄歩いてみると、それが偶然なのか何なのかよく解ると思う。そして谷崎の意地の悪さがよく解る。

 金杉橋から日本橋蛎殻町迄は七キロ以上の距離がある。形式的には偶然に、ぶらぶら散歩していた筈が、実際には探偵事務所に誘導されている。そんな偶然が果たしてあるものだろうか。

 これが私の見立てだ。しかし案外こんなことがこれまで誰からも指摘されてこなかったのではなかろうか。七キロも歩けば現在では結構な遠足だ。昔の人ほど良く歩いたので、七キロ程度で歩きすぎとは言わないが、読み返してみると七キロも歩かされている感じがまるでしない。これは少し意地が悪い。町名から距離の感覚が田舎者には解るまいというという、都会人らしいいやらしいところが少し見える。

 中央区の図書館で、谷崎潤一郎に関する十数冊の評論を確認してみたが基本は「谷崎は理想の女を描き続けた」という辺りに執着していて、初期谷崎作品に現れる政治的な毒に関する言及は皆無であった。いや「億兆の國民」や「足利尊氏」といった指摘だけでも、これまでの谷崎論の空虚さを証明するのに十分だろう。

 しかし考えてみると不思議だ。何故神童・谷崎はこんなにひねくれてしまったのだろう。この『検閲官』では天下国家が論じられ、「首相以上の或る方面」までがやり玉にあがる。悪い規則に従う役人は有害で、悪い規則を変えられないなら職を辞するべきだとまで云う。まことにその通りだ。あなたは卑しい人間だという。旧憲法下ではこの論法は露骨な天皇批判である。「首相以上の或る方面」なんてどう考えても天皇陛下しかいない。まさかこの時代に大統領でもなかろう。

 ただ天皇を批判して世の中がひっくり返る時代ではもうなかった。当たりくじなんてもうないのだ。リスクばかりがあるのに、どうして谷崎は我慢が出来なかったのだろうか。

 また谷崎という人は『蘇東坡』では「万民を斉しく天子の公民とする斉民思想」に反対する蘇軾をわざわざ主役に据える。そして謎の漢詩のパズルを拵える。残念ながら私の知識ではこのパズルを解くことはできない。

 いや、何も私は不必要な謙遜などをしているわけではないのだ。インターネットを駆使し、人力を駆使し、この問いがちょっと漢文が得意だというくらいでは解けないレベルのパズルだということを確認したのだ。

 知識だけではこのパズルは解けまい。ひねりがあれば漢文の初学者にもとけるのかもしれないが、何しろ字義を丁寧に当たっただけでは解決しない。こんな難解なパズルを出してくるとは谷崎はなかなか意地が悪い。

 この『私』では、「信用できない語り手」「話者の裏切り」というレトリックを出してきた。しかもよく知られているようなやり方ではない。

 そしてこれを読んでみると、どこか気まずい。谷崎の意地の悪さが絞った雑巾から滲み出てくるような気まずさだ。この気まずい小説というのも谷崎文学の新しさではなかろうか。

 そしてこの『不幸な母の話』はひたすら気まずさが残る話だ。どうも真・善・美ではない。なんというか、グリム童話のような気まずさだ。さてこれが何なのかと考えていると、やはり最初の作品が思い出される。全集の最初の作品にはやはり国母に対する激しい怒りが込められているとしかいいようがないのだ。

 億兆の國民の膏血をすヽり、邪曲を扶け、正義を虐げ、天下に荊棘の苦を負はす驕慢の人の子。子を持てる親、兄を持つ弟、夫持てる妻に、猜疑と、嫉妬と、瞋恚の炎を焚きつくる驕慢の人の子の命を宿す女を咀はむ。(谷崎潤一郎『誕生』「谷崎潤一郎全集 第一巻所収」、中央公論社、昭和五十六年)

 しかし谷崎は容易く正義にはならない。洟のついた手巾をしゃぶる。どうも捻じれている。この捻じれの正体はまだ分からない。明日分かるんじゃないかな。






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