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痴人が餾釣りに行きやあしめえし、餌を食ふまで待つて居たんぢや、痺れを切らしてしまひますぜ

 引き続き谷崎潤一郎の『お才と巳之介』から、「痴人(こけ)が餾(ぼら)釣りに行きやあしめえし、餌を食ふまで待つて居たんぢや、痺れを切らしてしまひますぜ」の「餾釣り」について考えてみたい。

 問②「痴人が餾釣りに行きやあしめえし」とはどういう意味か?

 谷崎潤一郎の『お才と巳之介』を読んだという人で、ここをさらっと答えられる人がいるだろうか?
 まず当時の人々にとって鰡がどういうもので、鰡釣りとはどういうことなのか理解できていないと回答は難しいだろう。
 

ボラ(、鯔、学名Mugil cephalus)は、ボラ目・ボラ科に分類される魚の一種。 ほぼ全世界の熱帯・温帯に広く分布する大型魚で、海辺では身近な魚の一つである。 食用に漁獲されている。(ウイキペディア「ボラ」より)

 これが現在における平たい説明だとしたら、ここには答えのヒントはない。今の釣り人にも解る人は少ないだろう。

江戸前、浅いところ、いわゆる高場のボラ釣りは、ほかの土地では見られない独特の釣りである。ノリヒビの間へ舟をもやって、ヒビの根につくボラを釣るのだが、深さは三尺か四尺ぐらいというところで、一丈一尺の、俗に丈一という竿で、道糸は五尺ぐらいしかついていない。したがって、ボラが食って釣れると、竿を立てても魚は竿の上のほうについている。これをはね込みといって、竿を引いて、自分の前に魚を落とす。それがなれないうちは、腕いっぱいにのびないので、魚をゴボウ抜きにできない。それをするには、自分の家の縁側にすわって、庭先へ、釣り竿の先に大根をつけて、とり込みのけいこをする。場所もヒビ一枚違っても、ボラは食わない。それを毎日、自分船頭、つまり手こぎで出ている人は、一尺と違わないところに舟をつける。十五、六歳の兄弟が、ベカ舟をこいできて、
「あんちゃん、きのうのヒビはここだったね」
「いや、もう一枚先だよ」
 と、舟をつけて、ボカボカと釣りあげるのを、船頭つきの舟で、それをただ口をあいて見ているというのは珍しくない。(三遊亭金馬『江戸前の釣り』)

 つまり江戸前の鰡釣りはヒビ(海苔粗朶)の位置とはね込みの稽古あってのもので、痴人(こけ)には手に負えないものだ、という理屈になる。ところが単に「鰡釣り」で調べると、現在的な鰡釣りの話ばかりが出てきて、引き上げる時にバシャバシャ撥ねて、他の魚を逃がすので釣り人に嫌われるとか、臭いが気になるとか、案外簡単に釣れるとか、一年中釣れるとか、出世魚だとか、実にさまざまな情報が出てきて収拾がつかない。
 それを、

回答② 「痴人はよく誤解するもの。だがそのゴカイでは餾は釣れないという意味である」

 …と、大喜利をやってしまってはキリがない。
 ちなみに「餌を食ふまで待つて居たんぢや、痺れを切らしてしまひますぜ、每日犬の遠吠え見たいにふざけ散らして居るばかりぢやあ、つから榮えない話さね。」の「つから」は「つから」は「冒頭(はな)つから」の意味だと解するも、他に用例が見つからないので、閉口している。





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