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『1973年のピンボール』の主人公は何を悩んでいるか?

 25歳の読者が「1973年の25歳は何をそんなに考え込んでいるんだい?2022年の25歳にはよく分からなかったよ」と読書メーターに書いていた。確かに1973年は大昔の事であり、2022年の25歳には本当に分からないことなのだろう。なにしろ四十九年前のことなのだ。

 この「1973年の25歳は何をそんなに考え込んでいるんだい?」という問題を年寄りに質問すれば一発で答えが出るが、ネットで検索すると苦労するかもしれないということで書いておく。

 1970年三島由紀夫の死以降、学生運動は過激化し、先鋭化され、孤立していった。村上春樹さん自身も「梯子を外された」感じで学生運動から離れて行った。この学生運動の雰囲気は今のポリテイカルコネクトネスやSDGsやエコに似ているところがあり、フランス革命のような必然で、社会は本当に変わると信じられていて「正義」と「科学」が結びついたやっかいなものだった。

 ちなみに革命が成功するかも、という期待はさしていい加減なものではなく、1960年隣国では4.19革命(サイルグヒョンミョン)が起きて第二共和国ができた。1960年12月、中央公論に掲載された深沢七郎の『風流夢譚』ではクーデターのような革命のような暴動が描かれ、自衛隊と警察が衝突する。

 しかし三島由紀夫は1970年の時点で全共闘に命を捨てる覚悟がないことを見抜いていた。また革命もクーデターも成功しないであろうことを知っていた。

 村上春樹さん自身はさっさと学生運動をご卒業して大企業に就職していく同世代に同調できず、モラトリアム期間、ハウスハズバンド、肉体労働(飲食業)を経て作家になる。1973年はピーターキャット開業前のアルバイト期間に当たる。

 1973年と言えばカミキリが流行って、と池田清彦さんは書いているが、精鋭化した左翼組織の活動が過激化していた時代でもある。しかし村上春樹さんにしてみればそれはもう終わったものだった。政治的なものから遠ざかり、それでもどこかご卒業できないでいた。

 次作『羊をめぐる冒険』では三島由紀夫の事件が「どうでもいいこと」として描かれる。

 もう終わった、けれどもすっきりしない。

 その感覚を、昔からの憧れである双子のカールフレンドを持つことと絡めて書かれたのが『1973年のピンボール』だ。3フリッパーのスペースシップのシリアル番号にも、ハイスコアにも意味はない。

 208はリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』から引き継いだ。209には意味はない。意味はないがその意味のない数字は又、『ねじまき鳥クロニクル』に引き継がれた。 

 ……と云いつつ、僕はまだ三歳なので、大人の事情は解らない。来年には解ると思う。

※「昔からの憧れである双子のカールフレンドを持つこと」ってさらりと書いたけど、これずっと後でエッセイにさらりと書かれて、みんながずっこけたところですからね。みんなシリアル番号にも、ハイスコアの過剰さにも気がついて、せっせと読み解きを始めて、「そもそも208が過剰なのではなく、双子そのものが過剰なのだ」なんていうことを書いていたところが、「昔から好きなんですよね」と書かれて、「えー」っとなったというのが真実です。村上作品の読み解きはほどほどにという教訓でした。

 配電盤からロストボールにまで意味を与えようとしたら、後で「えー」となりますよ。

 いい加減な謎解きサイトなんか見ちゃダメだって。

 



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