芥川龍之介の『芭蕉雑記』に思うこと⑪ 正岡子規に喧嘩を売っている
芭蕉についていろいろと思うところを書こうかなと、その程度の意図でこの『芭蕉雑記』は書かれたのだろうと思っていたが、やはり剣呑なものが具体として現れた。
片手落ち?
芥川には本来関係ない話だが、三島由紀夫の清水文雄宛の手紙に鬼貫だの一茶などと出てくることを思うと、いかにも蕪村がディスられ過ぎの感のある『芭蕉雑記』の中に一茶が現れない完全無視の態度の方が冷徹な感じさえする。
そういえば蕪村は芭蕉を無視した。
さすがにそれはなかろうというくらいに蕪村は芭蕉に喧嘩を売っている。其角、嵐雪、去来は蕉門、素堂は芭蕉に近い友人、鬼貫は西鶴同様芭蕉のライバルであるといってよいだろう。つまり蕪村のチョイスには明確に「芭蕉の不在」があるのだ。藤波辰爾、藤原喜明、前田日明、坂口征二、ジャイアント馬場と云ってアントニオ猪木の不在を示すのと同じ手口だ。
この後『続芭蕉雑記』では一茶にも触れられるのだが、そんなことはまだ読んでいないので誰も知る由はない。ただ『芭蕉雑記』の時点では蕪村がやたらとやり玉に挙がっている感じがする。この蕪村の態度が気に入らなかったのではなかろうか。
つまり芥川は芭蕉推しで、そうでないものが気に入らない。無論そこを単なる「好き嫌い」の話にするのではなく、蕪村と比べて具体的に何が優れているのかということを念入りに説明していく。
ところで「しかし芭蕉の付け合を見ずに、蕪村の小説的構想などを前人未発のやうに賞揚するのは甚だしい片手落ちの批判である」と直接的に批判されているのは、
え? 鬼貫?
と一瞬迷ったが、
やはり、
どうも正岡子規だ。
芥川と同じ蕪村の句「お手打の夫婦なりしを衣更へ」を引き合いに出して「小説的な句」と言っているようなので、ここはもう誤魔化しようもない。
そう気が付いてみると「三百年」と云ってみたり、『芭蕉雑記』の攻撃目標は子規だ。その構図は芭蕉を無視した蕪村をとことん叩く姿勢と同じものだ。つまり芥川の『芭蕉雑記』は正岡子規の『芭蕉雑談』に対抗して書かれているのではなかろうか。
正岡子規の『芭蕉雑談』は芭蕉の聖化認めないという姿勢に貫かれた書だ。
まず「年齢」というテーマを掲げ、「みんな芭蕉を翁と呼んで有難がるけれども年齢は五十一だ」とやる。次に「平民的文学」と言い出す。子規は平民ではなく士族で、当時この平民と士族の身分の違いは名簿などでしっかり区別して表記されている。
つまりここで「平民的文学」と子規が書いているのは、士族としての意識が働いているということである。
ここで子規は「多数の信仰を得る者は平民的文学ならざるべからず」といきなり核心を突く。今でいえばベストセラーは大衆文学、という言い方になろうか。そして芭蕉の勢力は宗教だ、と言ってのける。さらに「平民的文学は第一、俗語を嫌わざること、第二、句の短簡なるをいふ」として、芭蕉の俳諧が完全無欠で神聖にして犯さざるものになっていった経緯をやや誇張気味に揶揄う。
正岡子規の『芭蕉雑談』は芭蕉が持ち上げられ過ぎているところを子規なりに修正しようという試みである。勿論貶しすぎてもいない。ほめ過ぎない。ただ聖化は気に入らない。そういう書だ。
どうも芥川はその内容に納得できず、『芭蕉雑記』を書いたようだ。
師・夏目漱石のかけがえのない友人正岡子規を、その出発点を敢えてしっかり攻撃している。
このあたりのことは流し読みでは解らないので調べてみる必要がある。調べてみてわかるのは、それにしては細かいところであれこれやらかしているということだ。いかにも『古今和歌集』を読み飛ばしたような書き方がされているが、本当はどうなのかはよく分からない。
ただ読者の力量を試していることは確かだ。それは明日詳しく説明しよう。生きていればの話だけれど。
調べないと解らない。
読むということは調べることと同じである。調べることのできるのは生きている人だけだ。
私の本を読むことが出来るのも。