岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、
……とある。この件に関しては私は既に一つのポジションを明らかにしていることから、そのポジション故に反論するのではない。この注解は完全な誤りではないが、私の主張と同程度の独自研究の域を出ない。
私にはまず須永市蔵が言語学者のような立場から「東京の山の手の中流家庭での言語を基準にして標準語(共通語)が定められた」とか「新たに作られた言語体系」などというものを意識していたかどうかという点は甚だ疑問である。そこにはやはり「滑っこい癖にアクセントの強い言葉で、舌触したざわりの好い愛嬌を振りかけてくれる」須永市蔵の母親へのシンパシーの裏返しがあったとみるべきではなかろうか。
神戸から来た客の言葉は江戸弁が滓取りされた上澄みのような東京語だったと思うが、その具体的な言葉が示されていないから、それが標準語(共通語)なのかどうかの判断は本来できない筈だ。具体的に示されているのは須永市蔵の母親の江戸の風情の残る語り口である。
漱石作品は時代の風俗を積極的に反映させており、『それから』でも「好くってよ、知らないわ」という流行語が出て來る。こうした流行語は昔から若い女性が敏感なようで、『彼岸過迄』では田口千代子が松本恒三との間で、
……と、ちらりと使っている。また流行語かどうかは別として、
叔父に対して「失敬ね、あなたは」は標準語(共通語)ではなかろう。私はこういうものが須永市蔵の言う「東京語」ではないかと考えている。すなわち東京語と標準語(共通語)の間には微妙な差があり、市蔵が嫌う「東京語」は言語体系などといったかっちりしたものではなく、ちょっとしたニュアンスのようなものではなかったかと考えている。
松本に宛てた市蔵の手紙には、自身の出生の秘密に関する受容、そして肯定、さらには二人の親への思慕が現れると見た時、
と直截に表れた生みの親の受容に対して、
という表現の内に、江戸慣れない東京語の否定→江戸訛の育ての親への親しみが間接的に現れてると見做すことが出来よう。そうでもないと育ての親がいかにも気の毒であり、いささかバランスを欠く。
[余談]
何度も書くけど、
これ便利。
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