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『彼岸過迄』を読む 7  文字通りの意味とはどういうことか?

 松本の家は矢来にある。

 松本の家は矢来なので、敬太郎はこの間の晩狐につままれたと同じ思いをした交番下の景色を想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共二股に割れて、勾配のついた真中だけがいびつに膨れているのを発見した。彼は寒い雨の袴の裾に吹きかけるのも厭わずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒を握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるで趣きが違っていた。敬太郎は後の方に高く黒ずんでいる目白台の森と、右手の奥に朦朧と重なり合った水稲荷の木立を見て坂を上った。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちは小さい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた枳殻の垣を覗いたり、古い椿の生い被さっている墓地らしい構えの前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 今の地図で見ると目白台の森というのは肥後細川庭園辺りを指すものかと思われる。これが区立目白公園だと矢来町からは徒歩一時間の距離になる。それにしても水稲荷の位置と矢来町の位置に変化がなければ、早稲田通りを神楽坂に向かって歩くような格好になろうが、これは勾配と云っても落差は四メートルもないほぼ平坦なルートである。この辺りの感覚はもう確かめようのないことかもしれない。しかし家は親譲りのものかも知れず、必ずしも松本の趣味を現すものではないかも知れないのでいい加減にすまそう。

 話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。「あなたはこれから田口に使って貰うというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世に著れない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟をちらちらと閃かされた。そればかりでなく、松本は田口を捕まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵しった。
「第一ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考えのできる閑がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年が年中摺鉢の中で、擂木に攪き廻されてる味噌見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」(夏目漱石『彼岸過迄』)

 なるほどこれは代助的「上等人種」の言い分だ。

 代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんな事を云うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出しているのが、全く映らないのである。(夏目漱石『それから』)

 松本は田口は忙しくて駄目だという。さも自分の脳みその中には有意義な結果が生まれつつあると自慢したげである。労働を否定、拒否し、より高みを目指している。どうも向上心がある。なんなら私の本も買ってくれそうだ。この松本に対してまだ田川敬太郎は「ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟を受けるだけであった」と捉えきれていない。

「それでいて、碁を打つ、謡いを謡う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞なんですが」
「それが余裕のある証拠じゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民でないからです。いくら他の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ここで揶揄われているのは漱石自身の趣味ではない。漱石自身は謡と絵をやるが、囲碁将棋は知らないと書いている。

 娯楽と云うような物には別に要求もない。玉突は知らぬし、囲碁も将棊も何も知らぬ。芝居は此頃何かの行掛り上から少し見た事は見たが、自然と頭の下るような心持で見られる芝居は一つも無かった。面白いとは勿論思わぬ。音楽も同様である。西洋音楽のいいのを聞いたら如何か知らぬが、私は今までそう云う西洋音楽を聞いた事の無い為せいか、未まだ一度も良い書画を見る位の心持さえ起した事は無い。日本音楽などは尚更詰らぬものだと思う。只ただ謡曲丈だけはやって居る。足掛六七年になるが、これも怠けて居るから、どれ程の上達もして居ない。下がかりの宝生で、先生は宝生新氏である。尤もっとも私は芸術のつもりでやって居るのではなく、半分運動のつもりで唸るまでの事である。 
 書画だけには多少の自信はある。敢て造詣が深いというのでは無いが、いい書画を見た時許ばかりは、自然と頭が下るような心持がする。人に頼まれて書を書く事もあるが、自己流で、別に手習いをした事は無い。真との恥を書くのである。骨董も好きであるが所謂いわゆる骨董いじりではない。第一金が許さぬ。自分の懐都合のいい物を集めるので、智識は悉無である。どこの産だとか、時価はどの位だとか、そんな事は一切知らぬ。然し自分の気に入らぬ物なら、何万円の高価な物でも御免を蒙る。(夏目漱石『文士の生活』)

 よくよく考えると漱石はそう余裕のある人ではない。いかにも囲碁でも打ちそうだが、よく人に会い話を聞くのが好きな人だった。そういう意味では松本の理屈はいかにも現実を離れている。松本は人が求めない人であり、人が感情を害しても困らない。つまり人に頼ろうという気持ちもない。頼られたくもない。「いいね」も「スキ」もいらない。評価を内側に持っている人だ。そしてどこか危険でもある。この理屈を推し進めれば、道徳の意味が変容しかねない。

 これでは高等遊民は風呂に這入ったり髭を剃ったりしなくなるのではと思えてくる。それでは到底上等人種ではなくなる。しかしどうも松本は無職の大卒者という意味で「高等遊民」とは言っていない。

「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
 松本は大きな火鉢の縁へ両肱を掛けて、その一方の先にある拳骨を顎の支えにしながら敬太郎を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色があるらしくも思った。(夏目漱石『彼岸過迄』)

educated idlers

rich slacker

High-ranking nomad

a supreme vagabond

That word is a little difficult to explain because it's a historical word.
高等遊民 are people who have graduated from university and (but?) don't work (have no job).(https://hinative.com/questions/534683)

 文字通りと言いながら、松本の言う「高等遊民」は単なる無職ではなく、単なる高等教育を受けた者でもなさそうだ。ご卒業してしまっておらず、今も頭の中で考えを深めている。責任回避者、怠け者、遊牧民、いずれの意味もピンとこない。松本はむしろ「高等」の文字にeducatedもrichも両方の意味を込めた上で「遊民」を探究者のような意味で使っていないだろうか。ただ暇つぶしで本を読むのではなく、忙しく働いて脳みそに暇がない人間を見下す程度に考えているのだ。

 またヒントは此処にあるように思える。

「じゃ田口へ行ってね。この間僕の伴れていた若い女は高等淫売だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
 敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ここで使われた「高等淫売」の「高等」は「高等モデル」の「高等」と同じ、「高級」の意味だ。つまり松本の言う「高等遊民」は「高級無職人」という意味になるのではなかろうか。松本はハイクラスで、リッチで、教育を受けたばかりではなく現に研究を続けていて、職業に落ち付いた者よりも頭を使っており、なおかつ妻子を有し、家庭的だという……。その地位をどのようにして松本が得たのか、そのからくりは定かではない。いやそれは寧ろ不可能ではないかとさえ思える。

 ただその不可能は蛸狩に成功しなかった凡庸な朝日新聞読者に敢て見せつけるものではなかっただろうか。そんなものはないだろうという思い込みに対して、そんなものもあるよと見せつけていないだろうか。

 いずれにせよ『彼岸過迄』において「高等遊民」の概念は独特に捉えられている。

 一般的に考えれば田川敬太郎こそが、教育を受けたのに職業に就けない、いわゆる「高等遊民」であるが、作中はどういうわけか「高等遊民」という呼ばれ方をしない。

 一方あたかも「金持ちの高級探究者」いや「上等人種」であるかのような松本が「高等遊民」を自称する。それは「高等遊民」の概念を字義どおりに戻そうとする主張であるかのようだ。

 其所で、遊民があるとして、無智で下等な遊民の方が好いか、智識ある高等の遊民の方が好いかと言えば云うまでもない高等遊民が好い、同じ貧乏人でも、無智で低級で下等な奴よりは、智識ある高等な貧乏人の方が好いのである。それで、何所の国にでも此の遊民はあるのだが、其の遊民に智識があると否とで、其の国の文明が別れる。智識ある高等遊民のあるのは其の国の文明として喜んで好い、遊民其の物を喜ぶのではないが、国が文明になれば遊民も亦智識が進み、文明になる。それは、国が文明に進むに伴れて教育の進歩した結果、当然来ることで、それを恐れて教育を加減するが如きは可笑い話である。(内田魯庵『文明国には必ず智識ある高等遊民あり』)

 内田魯庵のこの主張の背景には「高等遊民が増えても剣呑なので学校を増やすのを止めよう」というような考え方が一部であったという事実がある。内田魯庵は教育を受けた者が職に就けないなら教育を受けられるものを減らそうという考え方に真っ向から反対しているが、ただ不平分子を増やすだけなら教育など無駄なことなのだろう。

 これに対して漱石はいわゆる「高等遊民」でしかない田川敬太郎に対して、本来あるべき「高等遊民」の松本恒三を対峙させ、還元的感化を与えようとしたのではなかろうか。

 田口要作(その名が使われるのは189個の「田口」の110回目!)が田川敬太郎を高等出歯龜から人間研究者に導いたように、松本恒三は田川敬太郎に対して本来あるべき「高等遊民」の理想を見せ、いわゆる「高等遊民」というものが文字通りではないんだよと教えたのだ。

 既にさまざまな資料で示した通りいわゆる「高等遊民」は実質的にはごろつきとほぼ同義である。なんなら田川敬太郎も高等出歯龜に落ちようとしていた。そこは夏目漱石の真・善・美の理想から外れてくるところなので、松本恒三のような超然とした存在を一つポンと置いて、田川敬太郎に刺激を与えたかった、東京朝日新聞の読者にも刺激を与えたかったのではなかろうか。

 漱石はいわゆる「高等遊民」など高等でも何でもないといいたかったのだろう。このからくりが「高等遊民」という言葉のねじれの正体だったのではないか。私は今、そんな風に考えている。そろそろ本が売れないかなとも考えている。疲れたからちょっと散歩しようかなとも考えている。

[余談]

 ウィキペディアの「高等遊民」の説明を読み直してみたら、夏目漱石作品の『こころ』と『それから』には触れられているが『彼岸過迄』には触れられていないことに気が付いた。それだけ松本恒三の取り扱いはややこしいということなのだろう。













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