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谷崎潤一郎の『お才と巳之介』を読む 化け物が現れた

 たとえ神に見放されても、私は私自身を信じる。潤一郎

 成ろうことならついまずリンク先を目を尖らして御覧じゃい。1926年、新潮社から出された『現代小説全集 谷崎潤一郎集』はこの悲壮な覚悟の直筆で始まる。あの大谷崎にして、この覚悟とは。
 私はこの言葉の前に立ちすくむ。
 あの神童、天才、そして功成り名を遂げた谷崎潤一郎が、こんなことを書いているのだと思った時、天龍源一郎にパワーボムを喰らい、ほとんどちんぐりがえしのような姿勢になりながら、茫然自失となっているプロレスラーのように、この言葉に帰る。
 負けるものか。
 この谷﨑の覚悟を見て、なお、私は負けるものかと思う。この凡才、浅学の徒が、なおも語ろうとするのは「引けない意地」ですらない。

たとえ神に見放されても、私は私自身を信じる。潤一郎

 このくらいの覚悟がなくては、神童でも文学に生きることは出来ない。だから私はインターネットという利器の力を借りて、大谷崎に挑むことにする。
 さて、『お才と巳之助』は知恵と蛇と兎の話ではない。題名にはっきりそう書いてある。
 お才と巳之介の話である。筋は誰かがまとめてくれているのを読めばいい。「『お才と巳之介』」「あらすじ」と検索すれば適当なものがずらずら出てくるだろう。無論それはかなり間違っている。『お才と巳之介』は巳之助が卯三郎に騙され、お才に蹂躙される話ではない。そのことは結末から明らかだ。

巳之介はにたにた笑つて女の傍へ迫つて行つたが、あはや片手を伸ばして相手の背中を抱き寄せようとする途端に、お才は不意に「あれェ」と云つて逃げ出した。
「おいおい待ちなよ。あわてるなよ。何もそんなに嫌はないでもいいつてばなあ。」一本の畦路を二人は夢中でどんどん走り始めた。程なく巳之介は後ろから追ひ着いて、帶の結び目へ手を掛けると、お才はそれを振り拂つて、男の顏を矢庭に激しく引搔いた。がりがりと云ふ音がして、巳之介は額や頰片が崩れ落ちたやうに思つたが、實は乾いた泥の塊が粉々に破れたのであつた。「あツ」と云つて、彼は立ち止まつて、埃の沁み込む眼と口を抑へた。お才も餘塵を浴びたと見えて、「ペツ、ペツ」と二三度巳之介の眉間のあたりへ唾吐を液きかけて、又すたすたと逃げ出した。
「お才やーい。」彼は渾身の聲を搾つて怒鳴り立てた。さうして、必ず彼の女を手なづけてやらうと云ふ決心を以て、猶も懲りずまに追ひかけた。(谷崎潤一郎『お才と巳之介』)

 この通り、『お才と巳之介』はお才という素人の悪い女が、巳之介というとんでもない化け物に憑りつかれる話である。知恵はお才が回るかもしれないが、そんなものを無意味にする変態性を巳之介は獲得する。ぴょんぴょん卯三郎は巳之介を「甘酒野郎」と見下し臀を押し、お才の嫂も「椋鳥」と嘲るが、巳之介はこんな奴らの出放題の上手口で手玉に取られるほどのぼんやり者でもお人好しでもはない。なかなか者である。
 蛇である。この蛇のニュアンスがやはりこの『お才と巳之介』全体のテイストを支配していると言ってよいだろう。あくまで常識人たる善兵衛に対して、巳之介はどういう意味でも服従するつもりはない。腹の底で馬鹿にしている。あまりにも強かだ。
 これまで谷崎は繰り返し、ドミナがマゾヒストの服従によって創造される虚構だと説いてきた。『お才と巳之介』が又候人情本のテイストの中に描かれ、時折、「かう云ひ捨てて巳之介は、鮨屋の權太のやうに臀を端折つてすつくりと立ち上つた」と登場人物の所作が芝居じみるのは、ただの偶然ではなかろう。芝居から覚めないことでのみ、お才は知恵の廻る悪女であり得た。しかし巳之介の底知れないマゾヒズムは、芝居の中のお才を道化にしてしまった。自分の仕掛けた芝居に負けて、あたらすたすたと逃げ出すドミナなどは、ドミナ失格である。辰巳芸者の「意気」も「張り」もない。おででこ芝居である。
 本物のマゾヒストは無敵である。
 すでに私は去勢から原子爆弾までを喜んで受容する沼正三のマゾヒズムの無敵さを指摘してきた。谷崎が本作で、これまでどこかふらふらとしていた谷崎のマゾヒズム、右往左往してきて腰の坐らなかったマゾヒズムをふりきったことは確かだろう。本作では一本筋の通ったマゾヒズム精神、マゾヒズムの骨法をうまうま獲得したことは認めてよいだろう。
 しかしまだ私は谷崎を信用しない。ここにあるのは巳之介という化け物を描く冷徹な精神であり、これが谷崎自身の何かの吐露である筈もない。
 たとえ神に見放されても、私は今日書き、明日書く。まだ何も確かでないのに易々と自分を信じる訳にはいかない。



【余談①】『お才と巳之介』の言葉たち
大門口 遊郭の入り口の門のところ。特に、江戸新吉原の入り口。
新造禿 江戸時代,吉原で御職女郎に付添った若い見習いの遊女。
五十間の通り 江戸、新吉原の衣紋坂から大門までの道。
張る 狙う 多くの男性が一人の女性を競争することをいふ。又不良学生の間にては女学生に口説きよることをいふ。
半籬 江戸時代の遊里で、大籬(おおまがき)に次ぐ格式の遊女屋。 上り口の格子が大籬二分の一から四分の三ぐらいの高さであるところからの称。 中店(ちゅうみせ)。 半店。
二朱女郎 最下級の遊女。

馴染金 遊郭、特に江戸吉原で、同一の遊女を揚げた客が三回目に祝儀として出す金銭のこと。
見世女郎 江戸吉原の遊郭で、張見世に出た女郎。
仲の町 なかのちょう 吉原遊郭の中央を貫いていた通り。 現在の東京都台東区千束4丁目付近。
幇間芸者 男芸者のこと。 酒席で遊客に座興を見せ,遊興のとりもちをする。
傾城遊女 美人の意,および遊女の意。
深川の芸者

辰巳芸者(たつみげいしゃ)とは、江戸時代を中心に、江戸の深川(後の東京都江東区)で活躍した芸者のこと。 深川八幡宮・永代寺の門前町は岡場所であり、遊女(私娼)と並んで「意気」と「張り」を看板にした芸者が評判となった。 深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったため、当地の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれた。

年喰い 年増の 小栗風葉、徳田秋声に用例あり。「張る」もそうだけどHiNativeしっかりせいよ。ちゃんと調べてから回答しないと駄目だよ。
赧む はにかむ あからめる/はじる/顔を赤くする ダン 庄司薫さんはこの字で「顔を赧らめる」と書いていた。
塩梅式 物事の状態のよしあしについていう。 ぐあいのほど。 様子。 あんばい。
待乳山

六つ 午後の六時ごろ
竃 へっつい 竈門、土や石、煉瓦(れんが)などでつくった、煮炊きするための設備。 上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。 
窃み足 足音をたてずにそっと歩くこと。ぬきあし。
唐割子

髻 たぶさ もとどり。髪の毛を頭の上に束ねた所。
瀧津瀬 滝のような急流
棒縞 太い筋のたてじま。
稚児が淵

碧瑠璃 あおく澄んだ水や空の色。
堅造 慎み深くして品行善き者を云ふ。
短兵急 にわかに行動を起こすさま。だしぬけ。
瀬蹈み 川を渡る前に深さを調べること。
痴人 こけ 虚仮
鰡釣り (・・?
垢離場 こりば 江戸末期、大山参りに出立する人が垢離を取った、江戸両国の隅田川べりの盛り場。
おででこ芝居 御出木偶芝居 小規模の劇場。江戸時代には公認の大劇場以外の劇場をさし,多く寺社の境内にあったので宮地芝居と呼ばれた。また草芝居,おででこ芝居,緞帳芝居
與兵衛の寿司

びいどろ

鐵の脇差 大丈夫

半四郎下駄 黒塗下駄のこと

橋詰 橋が終わっている所。橋のきわ。
ずんと ずっと。ぐんと。
辰巳の羽織

米澤町

川開き 納涼の季節の開始を祝う行事。 花火をあげるなど各地で行われる。
越後縮

八百善

白上布の着流し しろじょうぶ
黄縞の八端

濡事師 恋愛に関する表情、演技に特に秀れたる俳優を云ふ。
尤物 ゆうぶつ すぐれた物。
新色 新しい傾向。新鮮な様子。
一楽表

乗切る  困難・危機などを切り抜ける。
梅川 八幡 亀清
むさくろしい
伝法 言行が乱暴なさま。また無頼(ぶらい)漢。転じて(女の)勇み肌の態度。
銅のおとし

釣りしのぶ

麻の葉の浴衣

龍吐の水

蛇紋?
中形中ぐらいの大きさの型紙で模様の部分を白く残して染めたもの。そういうゆかた。
真岡木綿 栃木県真岡地方で産した綿織物。
あつたら おしくも。もったいないことに。あたら。
楠公子房 楠木正成と張良か?

三舎を避ける 恐れはばかって相手を避ける。
臀を押す 後ろから援助する。また、けしかける。
身上 しんしょう  一身にかかわること。 みのうえ。 しんじょう。 一身に災いのふりかかるさま。ふりかかってきたよ。今から考えるとロシアと同じだな。正論が通じない、聞く耳を持たない、反省しない、デマをばらまく、力で押してくる。
ぼんやり者 間抜け。ぼんくら。
成ろうことなら もしも実現できることならば。できることなら。案外こうした何気ない言葉が曖昧に受け止められてはいまいか、ここには主体の関与がある。
つい ほんのちょっと。つい今しがたとは言うが、距離には使われなくなった感じがする。
灯ともし頃 夕暮れ。
観音様に市の立つ日 毎年 7月9,10日
閻魔の廰 閻魔王が死者の生前の行為を審判して、賞罰する法廷。 閻王庁。 閻羅の庁。
しみじみお願い 心の底から深く。この使い方もなくなった。素晴らしいも谷崎の用例はやや独特。
おろおろ聲 取り乱したときの、不安におびえ今にも泣きだしそうな声。
御覧じゃい 尾崎紅葉、小栗風葉、北原白秋、泉鏡花、黒岩涙香ほかに用例あり。
鮨屋の権太 釣瓶鮓屋を営む弥左衛門のせがれ、いがみの権太というチンピラ。『義経千本桜』の三段目に登場する。


初卯 正月の最初の卯の日。また、その日に神社に詣でること。初卯詣で。
亀戸の天神様

でれ着く でれでれする。色恋に熱中し、しまりがなく、だらしないさま。 俗に、好きな相手、特に異性に対して甘えているさま。
妙見樣

妙見菩薩(みょうけんぼさつ)は、北辰尊星王(ほくしんそんしょうおう)ともいい、北辰(北極星)を仏格化した「星の仏さま」です。 宇宙の中心・根源とされ、星々のなかで最高位にあり、五穀豊穣・天下泰平・一族繁栄・病気平癒・息災延命・商売繁盛・交通安全・学業成就・縁結びなど、あまねく願いをお聞きくださる諸願成就の仏さまです。

https://ikaruga-horinji.or.jp/about/bosatsu/#:~:text=%E5%A6%99%E8%A6%8B%E8%8F%A9%E8%96%A9%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%BC,%E6%88%90%E5%B0%B1%E3%81%AE%E4%BB%8F%E3%81%95%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

みつしり働いて 一つのことを十分に行なうさまを表わす語。みっちり。  すきまなく十分に詰まったり、肉付がよくなるさまを表わす語。 すきまなくぴったりと密着するさま。
鐵無地の紬の羽織

https:/https://www.kimono-kyoto.jp/product-311.html


万筋の銘仙の綿入

銘仙着物は、「絣(かすり)」と呼ばれる手法を用いた平織りの絹織物の一種。

盲目縞の前掛け 縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物のこと。
巾着銭 巾着の中に入れておく少額の銭(ぜに)。小遣い銭。
違背 命令・規則・約定にそむくこと。
矢絣

きつい 激しい。
めんような 奇怪なこと。 不思議なこと。 また、そのさま。
甘酒野郎

庄吉の後方に、傘をすぼめて、顔を隠した深雪がついていた。人垣を抜けると、番所の入口に、仲間ちゅうげんが一人、番人が一人、腰かけていた。薄暗い中の方に、四五人の士姿が見えた。庄吉が
「今日は」
 番人は庄吉への挨拶をしないで、その後方に佇んだ深雪を、怪訝けげんそうにじっと眺めた。
「まだ、お調べ中かい」
「うん」
「何んだか、大勢、見えてるじゃないか」
「三田の御屋敷から、今見えたのだ」
 深雪は、一心に、中の方を見て、兄の姿、兄の声を知ろうとしていたが、今の番人の言葉を聞くと、胸をどきんとさせて、その顔をちらっと見た。番人は、庄吉の蔭になっている深雪の顔へ、顎をしゃくって
「何んだえ」
 と、庄吉に囁いた。
「あの士の妹さんさ。ちょっと、逢いてえが、いいかい」
「願ってみな」
 庄吉は、土間を、中戸の方へ行って、小腰をかがめて
「御免なさいまし」
 一人が、振り向いたが、じろっと庄吉を見たまま、黙って、元の方へ顔をやった。庄吉は
(こん畜生っ、何を、威張ってやがる)
 と、憤りながら
「一寸、お願い申しやす」
「何んだ、貴様は――」
 又、その侍が振向いて、睨んだ。そして、深雪が、群集の前に、浮絵のような鮮かさで立っているのに気がつくと、じっと、その顔へ、見入ってしまった。庄吉は、心の中で
(この甘酒野郎。女の顔を見て、とろとろにとけてやあがる)
 と、冷笑しながら
「ただ今のお侍衆へ、あの、お妹さんが、一寸お目にかかりたいと――」(直木三十五『南国太平記』)

 この一例しか見つからない。ただ谷崎の発明でもなかろう。シャンメリー野郎というところか。
よくよくの 他に適当な方法がなく、やむを得ずそうするさま。よほど。よくせき。  限度をはるかに超えているさま。この向斜の用法も使われなくなった。
悪日 あくび 運の悪い日。凶日(きょうじつ)。あくにち。
媾曳き あいびき
一伍一什 いちぶしじゅう 事の始めから終わりまで。最初から最後まで全部もれなく、すべて。いちごいちじゅう。
花川戸

好誼 よしみ こうぎ
顯れて ばれて あらわれる
うまうま たくみなやり方で、人を思う通りに動かすさま。まんま。
喞つ かこつ
辭柄 じへい 口実。言いぐさ。
ないにしてからが 「でさえも」では意味が通じない。ここは「とはいえ」
目を尖らして 何も逃さないように意識を集中させて見る。
刀豆の煙管

割り膝 両方の膝がしらを離してすわること。 また、そのすわりかたや、その膝。 男子の礼儀正しいすわりかたとされていた。
茶筅髷 毛先を茶筅のように仕立てた男性の髪型のひとつ。 安土桃山時代の前後に男性の間で流行したものと、江戸時代の夫人が行ったもののふたつがある。
纔かに わずかに
骨節の強い 体が丈夫な。
てんと まるっきり。てんで。とんと。 まったく。本当に。
あてがい扶持 与える側で適当にみはからって渡す金や物。 または、そうした与え方。
路考茶 江戸歌舞伎最高の女形と評された二代目 瀬川菊之丞 が好んで用いた 茶色 のこと。

八藤の縫模様

小菊の紙


方途 はうづ 進むべき道。しかた。方法。ほうと。づの読みは見当たらず。
椋鳥 田舎から都会に出て来た人をあざけっていう語。
又候 またぞろ なんともう一度。 こりもせずにもう一度。
なかなか者 したたか者という程度の意味か。

其紺緒の草鞋を贈つたので、この加右衞門のなかなかす旅に馴れたしたゝか者なることを知つたので、「しれ者」は「痴者」の方ではなく、「なかなか者」の意である。(服部畊石『芭蕉句集新講 上巻』)

色女 情婦。いろ。
凄文句 すごみをきかせたことば。
出来 しゅったい 事件が持ち上がること。出来上がること。
荷足 にたり 「荷足船」の略。川での運送に使う小さな舟。
庚申塚 道ばたなどに庚申をまつった塚。 多く、庚申青面(こうしんしょうめん)と三猿(さんえん)を彫った石などを立てる。 道祖神といっしょにまつられている場合もある。
金龍山の米饅頭

江戸浅草金龍山の「ふもとや」「鶴屋」、武蔵国川崎宿(川崎市)の川崎大師のそばの茶屋「万年屋」などの名物。
点綴 物がほどよく散らばっていること。


さうして、殘虐-これもその道の特殊用語だ-の相貌を呈し來る-「お艶ころし」、「お才と巳之助」(大正四年)から、登場人物がことごとく自他殺する「恐怖時代」(大正五年)。??? 

谷崎は更に進んで刺靑、鮫人、愛すればこそ、お才と已之助、惡魔等に性慾の苦悶を描いた。其等の中には變態性慾物も多い。其技巧も頗る巧みであつた。久保田は戯曲92に法成寺物語、恐怖時代、無明と愛染等がある。已之助???






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