岩波書店・漱石全集注釈を校正する 13 ドライブ中の書生は学んでいるか
書生
岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、
……とある。夏目漱石作品の中では、『彼岸過迄』において田川敬太郎が大学を卒業後、就職先が見つからない浪人中に「書生」を自認する。こうした一部の例外を除いて、「他人の家に住んで家事を手伝い」というところまではその通りかと思われる。問題は「学ぶ」というところだ。これは朝晩家事の手伝いをして昼間学校に通わせてもらうという意味なのか、日中家事の手伝いをして夜独習するのか、あるいは日々働きながらその仕事の中で学ぶということなのか、その辺りのことが曖昧ではなかろうか。
この小六の場合、そもそも学業を続けることが前提であったため、坂井の家に住み込み、大学には通学するものと考えられる。
門野の場合は大して勉強する考えもない。方々の学校に行ったらしいが飽きっぽいのでもうやめている。風呂を沸かし、掃除をし、新聞を持ってくる。つまり「学ぶ」気配がない。
田口要作の玄関番佐伯は秘書のようなことをやっているので、職業訓練を受けていると言っていいかもしれない。
谷崎潤一郎の『女人神聖』では由太郎が奉公に出される。仕事が忙しくて学校に通えない。これも書生だろうか。
総じて書生とは他人の家に住み込むが、奇貨居くべしの食客、居候扱いから、下男、丁稚扱いまで様々な待遇があったようだ。その待遇の差は、当人の学びたい意識の問題はさておき、専ら主人の考え方の違いによるものではなかっただろうか。『吾輩は猫である』の冒頭に現れる書生が何かを学んでいるのかどうか、これは不明である。人間中で一番獰悪な種族で猫を煮て食うことだけは確かである。
[余談]
これがウィキペディアでは、
とされていて、掲示板にどこから自動車を持って来たんだ、と書き込んだら「よく見て下さい、運転し始めた、とありますよ」と注意され、「そんなに気になるならご自分で勝手に編輯されたらいかがですか」とも書かれた。いやそれにしても「ドライブ中に」なのかという感心する一方、なかなか納得しない、というより納得する人が一人として現れないことに驚いた。
これは、『こころ』の話者がKの生まれ変わりのように仄めかされていて、先生は最後までそのことに気がつかなかったようだが、話者の全肯定によって先生の罪は消えるというロジックが、今のところ大体十五人くらいにしか理解されていないことと同じ根を持つ現象だろう。
件の記事を見ても分かる通り、1075人が見てスキは四つしかついていないし、そのうち一つは明らかに単なる宣伝屋のものだ。つまりほぼ全員から反感だけ買ったことになる。
そんなことある?
いや私は「ドライブ中に」という解釈に度肝を抜かれた。それをこき下ろすために記事を書いたのではなく、いかにも真面目腐って、その飛躍具合の派手さと、何でも好きに解釈して教えたがる独特の癖を論い、少々笑ってもらえるかと思いきや、何か読解力不足を上から目線で叱られたような、そんな感情に囚われる人が大半のようだ。
そしてこれは笑い事ではないかもしれない。
本当に書生がドライブをしていたと読んでいる人の方が圧倒的に多いのかもしれない。
もしそうだとしたら、こんなところにも注釈が必要だということになる。岩波書店の方、ぜひご検討ください。
本当にそうかもしれない。
犬?
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