そこは同じプラットフォームだ
詩人でもないのに地球の外の宇宙的寒冷と書いてみる。あるいは宇宙物理学者でもないのに、「宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない」(芥川龍之介『侏儒の言葉』)と呟いてみる。そこにどれほど言葉の誠があるものだろうか。目の前にある石炭ストーブは見えても、地球の外の宇宙的寒冷とはとても想像できないもののように思われる。
宮本は得意げに熱伝導の法則で恋愛を説明し始める。「実際そう云う公式がありゃ、世の中はよっぽど楽になるんだが」とやはり堀川保吉は真面目には聞いてはいない。それから四五日後、保吉は学校の生徒の轢かれそうになったのを助けようと思って轢かれた踏切番の轢死に出くわす。
あるいは「宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない」として、伝熱作用では説明できない世界に人間は生きてはいまいか。よっぽど楽ではない世界、文学者になにがしかの値打ちのある世界に。
薄ら寒い世界の中にも、温かい日の光のほそぼそとさすのは伝熱作用である。薄ら寒いのは人間の感覚である。人間がいなくては寒さなど存在しない。
……ところで、これも大正十三年に書かれていながら身辺雑記ではなく、海軍機関学校の教職員時代の回想の形になっている。
季節が冬であることから『文章』よりも前、大正八年三月以前の設定であろう。
どういうわけか列車の発車時刻が三十分ずれるが、この二つの小説で保吉が利用する下りの列車は同じものだろう。つまりここは同じプラットフォームである筈だ。この同じプラットフォームにおける汽車の煤煙の匂いが『お辞儀』ではどこぞのお嬢さんとだけ記憶の中で結びつき、
踏切番の轢死事件とは結びつかないのはどういうからくりだろうか。
あるいはこの「汽車」も、煤煙を吐き、踏切番をひき殺した同じものではなかろうか。
御嬢さんが不快な煤煙の匂いと結びつけられるのも、五六年後の春になって五六年前の寒さと共に踏切番の殉職が思い出されるのも、大正三年になって乃木大将夫妻の殉死が書かれるのも、みんな作者の勝手である。そうでなければ創作である。横須賀線の煤煙は『蜜柑』ではこう描かれる。
とてもどこぞのお嬢さんの記憶を呼び覚ますような余裕はない。あまり貶されない『蜜柑』が大正八年の作、書かれた時期と設定が比較的近い。『蜜柑』は「保吉もの」を名乗らないので、身辺雑記とは言われない。褒められる。
どうも近代文学1.0の人々は柑橘類には甘いようだ。
[余談]
「半時間」という表現、谷崎も芥川も普通に使うが、村上春樹さんも使っているのを「ハーフタイムの訳語?」と勘違いしていた。お恥ずかしい。いや最近はあまり見馴れない表現だが、確かに昔は普通に読んでいた。芥川の全集など何往復したか覚えていないくらいなのに。
あ、だから忘れているのか。
なるほど。