脊のすらりとした
まさかここに注は付けられないだろうが、どうしても一言言いたい。どうも漱石は脊のすらりとした女が好みである。田口千代子も大柄。マドンナも、「色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人」である。これはどうしても大塚楠緒子のイメージである。
正宗を三杯飲んだら
ここも注が付けづらいところか。正宗とは大方日本酒の事だろうとは解るものの。豊島屋の剣菱と違って、この正宗はどこの正宗か判然としない。ただ正宗としか書かれていないので、特定のしようがないのだ。
例の茶園
第二章のこの場面はやはり第一章の結びより、前の時期の黒を描いているように思える。
ここは不整合と云えば不整合になる。しかしそもそも猫が喋る小説なので、余り堅苦しいことは言うまい。
感投詞
この「感投詞」に関して岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、
……とある。「感投詞」そのものの説明としてはその通りであろうが、ここには「感投詞」がないことについては触れられていない。「君不相変らずやってるな」は「感投詞」ではない。「へー、」でなくとも、「山根―」のような意味での「きみ―」ならば「感投詞」と言えるかもしれない。
トチメンボー
あった!
近松に二人はいない
ちなみに近松秋江はまだ徳田秋江と名乗っていた。
孔雀の舌
孔雀の舌に関しては本文に、
と、このように詳しく描かれているため注はつかない。
こうも言われる一方、
という見立てもある。
猫の病気は
家畜の病気を診る獣医が存在したことは確か乍ら、
犬猫の病院が機能していたかどうかは不明である。
[余談]
一般に『吾輩は猫である』は筋のない話でロレンス・スターンの『トリストラムシャンディ氏の生活と意見』のように逸脱、逸脱を繰り返していると言われる。
第二章では細君も現れ、後架先生が牡蠣先生に変化、何か筋を模索している気配がある。
ただキャラクターを増やし、会話により量を稼いでいることは確かだ。一章をパロディ化もしている。
しかし逸脱、逸脱かどうかはまだわからない。
↑ この本をキャンセルした馬鹿。二度と近づくな。