岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、
とある。件の『三四郎』の場面は、こう。
なるほど確かに赤煉瓦はここにもある。しかし、
帝大の可能性も考えた。しかしこの「洗い落したような空の裾に」という表現は遠景、視界の果てを指しており、「色づいた樹が」は銀杏並木ではなく上野の森をさしてはいないだろうか。そして「色づいた樹が、所々暖かく塊っている間から赤い煉瓦が見える」とすれば、それは上野の森の間から覗く旧上野駅の赤煉瓦の駅舎なのではなかろうか。
・帝大の建物は近すぎて「洗い落したような空の裾に」捉えられない。
・帝大の建物は銀杏並木には隠れない。
・帝大の建物は近すぎて画にならない。とくに盆栽に合わせるような風流な画にはならない。すこぶる西洋的な画になる。
田川敬太郎が見下ろす景色は帝大の建物に隠されることなく上野の森を捉える。視界の端にあるのは上野の森で、そこから覗くのはやはり旧上野駅の赤煉瓦の駅舎であろう。
これで風流な画になる。
[余談]
断じて容認できない、という言葉、最近別の意味に聞こえて来た。「じゃ、ほかになんといえばいいというんだ」みたいに。
正直すぎる。