黒い髪に陽炎を砕く
これが殆どの人の『虞美人草』に関する誤読であることは既にのべた。藤尾は毒を飲んで自殺したのではない。
そして、
この森田草平のような日和見的態度が、「誤読」を「多様な解釈」にすり替えてしまう最もだらしないものである、と言っておこう。「多様な解釈」ができる場合とできない場合がある。藤尾の死に関しては後者である。「私には何方とも考へられる。そして何方に考へてもそれぞれ面白い。従つて何れとも確たる判断は與へられない」とする根拠が明確ではない。自殺説をとるならば、「毒をどこでどうやっていつ何故用意したのか?」という問いに答えねばならない。また、「蛾の女がしおらしく自殺する理由」を述べねばならない。
『行人』の「腑抜け」の直が、ここで小刀細工の自殺を否定し、猛烈で一息な死に方を望んだことを想えば、あの藤尾が毒を飲んで自殺したとはさすがに考えられないのではないかと思うが、どうも世間ではそうではないらしい。あの藤尾が解っていないのではなかろうか。
徹底して藤尾を我の女として描く漱石の苦労も水の泡である。これでは殆ど化け物だが、あえて漱石はここまで極端に書いたのである。こんな女がしおらしく自殺するわけがない。仮に死ぬとしたら、虚無党に爆弾でもぶつけられなければお話に成らない。それを愛弟子に「藤尾は別に毒でも仰いて自殺したんですか?」と質問されたとしたら、漱石先生は苦笑するしかあるまい。森田草平は質問しなくて良かった。いやしかし、小宮豊隆も解ってなさそうだなあ。