漱石全集未収載講演を読む① クッツいたのか離れたのか
夏目漱石ほど資料が充実している作家は他にあるまい。何度も資料が加えられ、漱石全集は年々厚みを増している。最近出された誰の説ではここはこうと、詳細な説明が加えられている。付録のよもやま話にも見逃せないものがある。漱石はほぼ丸裸だ。しかしその肥大化した漱石全集においてもまだ未収載という触れ込みの満州での講演「物の関係と三様の人間」を読んでみた。(『旅する漱石先生 文豪と歩く名作の道』所収、牧村健一郎、小学館、2011年)確かに読んだ記憶はない。これは後に和歌山などでの講演につながるものだと言われている。
これは当たり前のことのようでありながら、夏目漱石作品においては当たり前のことではない。基本的にほとんどの夏目漱石作品論者、あるいは漱石論者が作品の「あらすじ」さえ正しく捉えきれていない。しかもどういう了見かそのことを野放しにしていた。百年後に評価されることを本気で目論んでいたとしてもいささか悠長すぎる。そういう意味ではやはり漱石は途轍もない。
例えば『坊っちゃん』の清が死んだことは大抵の読者が理解している。しかし街鉄の技師となった「おれ」が小言を聞き、喧嘩もする呑気ではない時節に生きていることには私以外誰一人気が付かない。もし私が人でさえなければ、理解しているのはゼロ人なのだ。教師では好き勝手にやって技師になれば急に大人しくなれるものではなかろう。「おれ」は蟄居でもしない限り呑気ではいられないのだ。
その程度にクッツイタのか離れたのか、その関係が明かに判らないで、『行人』『こころ』の結末は読み誤られていている。二郎と直がクッツイタのか離れたのか、解らないで『行人』論を書いてしまう。いや、わざわざ書かなくても良いだろう。クッツイタのか離れたのか解ってから書くべきであろう。
『虞美人草』の藤尾は「毒薬」を飲んで自殺したことにされてしまう。『三四郎』のふりと落ちに気が付かない。『それから』の代助が批評家になり、批評されることに気が付かない。鈴蘭を活けた水が毒であり、三千代の心臓を悪くすることにも気が付かない。『門』の宗助が小六とお米を十日間二人きりにすること(清はいるとしても…)に気が付かない。字も書いていない宗助が急に「近」の字が解らなくなる不思議にも気が付かない。これではアア面白い、実に愉快だなどとはいえるものではない。
それにしても現状では最もだらしないのが『こころ』の「あらすじ」に関するものである。大枠では、
……である程度説明は尽きている。ここが読めていないと、そのほかの細かいところは見えない。この「私」という話者の立ち位置が掴めないで、江藤淳は「なんとなく」先生に惹かれるのだと書いてしまう。以降「私」の立ち位置を曖昧にした『こころ』論が溢れることになる。これではアア面白い、実に愉快だなどとはいえるものではない。
クッツイタのか離れたのか、その関係が明かに判らないで、書いてしまうことがこのnoteでもまかり通っている。いい大人が誤読と曲解をばらまいている。ネットでは、
こんなひどい解説が野放しだ。
私の書き方は少し厳しすぎると感じる人があるかもしれない。しかしこれが英語の授業で生徒がこんな頓珍漢な回答をして来たら、漱石はどうしただろうか。ガミガミ叱ったのではなかろうか。
やり直すのはそんな難しい話ではない。私の本を購入すればいのだ。蓮實重彦や柄谷行人の本を読んでも何も得られるものはない。すべての情報が無料で手に入るわけではない。
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