太宰治には書くことを巡る自己戯画化のような作品が複数ある。例えば『猿面冠者』はこう始まる。
この後に続くのが「文学の糞から生れたような男」という強烈なフレーズである。「神様の顔へ豚の 睾丸 ( きんたま ) をつけたような 奴」(夏目漱石『虞美人草』)「五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。」(夏目漱石『草枕』)……こうした強烈なフレーズが文学の肝であることは疑い得ない。いささか私小説的な自己言及な芸術家のコンフィテオールの形式を取ながらも、所々で「文学の糞から生れたような男」という強烈なフレーズが挟み込まれることによって、太宰作品は「読んで面白いもの」になっていると私は考えている。
例えば「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。」(太宰治『川端康成へ』)と書かれているのを読んで、太宰の本気の怒りを感じて居心地が悪くなってしまうのは「間違い」なのではなかろうか。「小鳥を飼い、舞踏を見る」は川端康成の『禽獣』という些か真面ではない小説を論うという意匠である。そしてこの指摘は実に適切なのだ。あてずっぽうの怒りではない。
こうした太宰の言語感覚が、最も尖った形で噴き出したのが件の「刺す。」ではなかろうか。
罵倒名人太宰の罵倒は面白い。面白くなくては名人ではない。太宰の名人たる所以は『如是我聞』ここに表れている。
ただ感情に任せた愚痴ではない。くるりと振向いて立体を拵えている。拵えるだけではない。その罵倒は徹底して苛烈で的を射ていなくてはならない。
ここまで書けて名人である。お判りだろうか。太宰が笑わせようとしていることを。太宰は「閉口したな」を卑屈な言葉としながら自分は「唖然とした」のである。これは交換可能な態度ではなかろうか。「おまえの弟に対して、おまえがどんな態度をとったか、よかれあしかれ、てんで書けないじゃないか。」とあるのは「おまえたちは、試合も生活も一緒くたにして、道具はずれの二の腕や向う脛を、力一杯にひっぱたく。それで勝ったと思っているのだから、キタナクテね。」式の攻撃ではなかろうか。
しかし私は自分自身の無学の立場を忘れ太宰治という作家を喝采せざるを得ない。
このぐいぐい来る感じ、まさに「試合も生活も一緒くたにして、道具はずれの二の腕や向う脛を、力一杯にひっぱたく。」感じが面白い。
太宰は川端康成を言葉で刺した。志賀直哉も刺した。刺されたままで、殺されはしないから川端は閉口し、志賀直哉は太宰などお殺せなさらなかったのである。