文章を正確に読むとはどういうことか②
こんなことを私が書いても「いや、そんなはずはない」で通り過ぎる人しか存在しないだろうが、やはり柄谷行人は夏目漱石に関して何か述べようとする度にとんでもない勘違いを露呈させる。
この書きぶりからすると柄谷行人は田川敬太郎という名前を思い出せなかったようである。そのことはよいだろう。しかし「高等遊民」の意味まで忘れて、なぜこのように持ち出してきたのか、その神経が分からない。
残念ながら『それから』には「遊民」の文字はこの一か所にしか現れず、それを口したのは代助の父親である。つまり代助が自ら「高等遊民」を自称したという事実はないのである。ここは解釈ではなく事実なのではっきり誤読だと指摘せざるを得ない。「高等遊民」はむしろ『彼岸過迄』おいて、
このように松本恒三の性質として現れる。この「高等遊民」という自称に、田川敬太郎は思わず、
こう、問うている。田川敬太郎は田口にそそのかされて職を求めるために探偵の真似事をさせられたのであり、「高等遊民」ではありえない。
つまり「漱石の『彼岸過迄』の主人公も探偵をやりますが、彼らは『それから』の代助がいうように「高等遊民」です」という柄谷行人の言い分は訳の分からない出鱈目に過ぎないのだ。しかしこう書いても99.99パーセントの人は無の感情で通り過ぎてしまうのだから呆れてしまう。
不思議なのはこの『坂口安吾と中上健次』の中で、夏目漱石に関して述べたところだけ出鱈目で、そのほかには「三島由紀夫は徹頭徹尾《小説》とは無縁である」とある外は、柄谷行人は案外真面なことしか書いていないのである。「三島由紀夫は徹頭徹尾《小説》とは無縁である」という記述も一見妙ではあるがそれは《小説》の定義が文脈の中で「物語」でないもの、とされていることからくる「解釈の違い」なので、すなわち過ちとはならない。つまり柄谷行人は夏目漱石に関してのみ誤読をするようにさえ思えてくるのである。
無論嘗て柄谷行人は村上春樹に対してとんでもない知ったかぶりの二年生ぶりっ子をして大恥をかいている。しかしそれは基本的な読み誤りではなく、書き誤りである。
これはやがて「何故漱石論者は漱石作品を誤読するのか」という壮大なテーマに捧げられる問題提起になるかもしれない。
いや、ならないな。
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