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「靴宇の社会人」には到底できないこと

 私は漱石ファンであるかもしれないが漱石信者ではない。同じ意味で「アンチ村上春樹」でも「村上主義者」でもない。ただおそらく世界で一番多く村上春樹作品を立ち読みしてきた人間であり、勝手に村上春樹作品を校正している多分たった一人の人間である。

 寧ろ問題は「そこ」なのではないだろうか。「わけがわからない」ことではなく、「わけはわからないけれど、これは正しいことなんだ」という確信が感じられるのに、それが正しいかどうかの検証がされないまま放り出されているところ、「そこ」に読者のフラストレーションの一因があるのではなかろうか。
全ての小説が真善美を目指す必要はない。しかしどうも村上春樹作品は徹底して何かを否定しながら、そのロジックに挟み込まれる歴史の大きさに本当の意味では向き合っていないのではなかろうか。夏目漱石が『虞美人草』で「虚無党は爆弾を投げている」と書くのは飽く迄冗談である。『吾輩は猫である』の「大和魂の歌」もユーモアを狙ったものだ。冗談に文句を言っても詰まらない。しかし冗談にならない話はすべきではない。

 だから時には批判的なことも書き、そうでないことも書く。

しかし渋滞感の根源は父親の秘密に迫ろうとしているのかいないのか、曖昧な村上春樹氏の姿勢と、父親の何を見ようとしているのか解らない事実の積み上げ方、未整理ぐあいに原因がある。それは村上春樹作品において繰り返し指摘されてきた「父を語ることの困難さ」がそのまま出てしまった結果に見えてしまう。

 こんなことも書いてしまう。なんでも「解るわー、よく解る」で片付けられないのだ。そこは単に性格の問題ではなく、こう言ってしまうとなんだが、そうなってしまってはお終いだと思うからだ。

川上宗薫であれ村上春樹であれ宇能鴻一郎であれ、ポピュラーな仕事をしている人そのものを悪く言うつもりはない。特に宇能 鴻一郎氏は非常に真摯な学究の徒として尊敬に値すべき人物とおもっている 宇能氏が村上春樹のような質の低い商売人と比較するのは失礼な文学者であることは間違いない。(Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein)

 こんなことを書かれているのを見るとつい反論したくなる程度に村上春樹作品を高く評価している。

よくここで(僕がどういう神経質な音楽屋かとか知らない方が)「作家は作品がすべて、作品がすばらしかったらいいじゃない」とかやってくる。あのね、素晴らしいかどうかは主観。これに対して誤字脱字や誤記その他ドキュメントの瑕疵は逃れ得様もないもの。この人は「自分のために作品がある」人と思う(Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein)

 などという人が

我と我が名を冠して出したモノについては、何十年たっても、どんな細かいことでも、懇切に責任を取るのが一流の人と思います。97年頃大江健三郎さんと光氏の「題名」を作ったけれど、僕は「政治少年の死」とか「ヒロシマ・ノート」とか古い話をいろいろ訊いて、逐一大変丁寧に答えて貰いました。(Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein)

 などとも書き、そして

公開されている年譜によれば,村上春樹という人は29歳迄苦しいジャズ喫茶経営など靴宇の社会人として行き詰まり、突然作家になることを決意して30から売文業に入った後天性、意識的名作家で文学を巡る10代20代の煩悶も蹉跌もない、最初から経営のそろばんありきの人なので、分相応と思っている(Ken ITO 伊東 乾 @itokenstein)

 こんなことを書いてしまう。

宇は天地四方といった広い意味を持つ字で、靴はほぼ靴という意味しか持たない字である。「靴宇の社会人」とはなんだ。そもそも煩悶や蹉跌のない社会人なんて存在するのか、と考えてしまった。 

 恐らく私は「靴宇の社会人」ではない。「社会人」とさえも呼べないかもしれない生き物だ。しかし恐らくこの伊東乾氏よりも深く村上春樹作品を読んできた。

 これは「靴宇の社会人」には到底できないことだろう。






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