『彼岸過迄』を読む 4351 松本恒三と田口千代子は「交際」していたのか?
「若い女には誰でも優しいものですよ。あなただって満更経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。
→田口要作から見て
①松本恒三は人一倍若い女に優しい男
②田川敬太郎は少しは経験のある男
私は昨日までこの「肉体上の関係があるものと思いますか」という田口要作の言葉を剽軽では片付けられない下品なジョークだと思いこんでいました。しかし例えば『行人』との関係で見た時、ここには二郎の報告を待つ一郎のようなものが現れてはいないでしょうか。というのも、
千代子は松本恒三をどこかへ連れて行こうとしています。銀座の三越で帯どめを買わせようとしているのか何だか解りません。この目的地はまだ見つかりません。明日分かるかもしれませんが、今日の時点では不明です。しかしここで松本恒三は「今夜は」と言ってしまっていますよね。つまりこうして二人っきりで会うことはなんら特別なことではなく、今後も会い、今夜のように遅くならなければその目的地へ一緒に行くのだということになります。家族で会うのではなく、二人っきりで。そういう交際が続いていたら、親としては「まさかそんなことはあるまい」と信じつつも、傍からどう見えるものか、世間体はどうなのかと少しは気になるものではないでしょうか。
そう考えると単なる悪ふざけ、遊びとしての探偵が、極めて実際家らしい仕掛けに思えてきます。
田口要作にしても、千代子が時折見せる家庭以外の空気に触れた大人びた雰囲気に、田川敬太郎よりは敏感に気が付いていた筈です。何しろ田川敬太郎は探偵の役目を放棄して、千代子に見とれていたわけですから。
田川敬太郎が松本恒三の黒子を確認するのは宝亭に入ってからのことで、それまで背の高さや黒の中折れくらいしか確認していなかったわけです。しかも「一人は紙で包んだボール箱のようなものを提げて」と、帽子も外套もチェックしていませんね。松本恒三に対しても同じです。「一人は降りると直に女の前に行って、そこに立ちどまった」と千代子中心に見ています。この後の記述なんですが、まだ男を見ません。千代子を見ています。
なんですかこれ?
探偵としては失格ですよね。まぐれ当たりにもほどがあります。千代子がいなければ、時間的にもそうですし、そもそも探偵が成り立ちそうにもありません。
しかもこんなことを言い出します。
繰り返しますがこの時点では松本恒三の黒子を確認していないんですよ。それなのに田川敬太郎は自分の都合のいいように「信じ」ています。つまりそれほどまでにYという女に関する自分の好奇心が勝っていた、何千人が行き来する大都会にあって、田川敬太郎にとっても田口千代子はひときわ目を引く魅力的な女性だったということなのでしょう。
そんな娘を持つ親の心配に対して、松本恒三はその意を汲んでか「高等淫売」という言葉を投げ返します。田口の悪戯を牽制とみれば、これは反論ですね。
よくよく読めば、確かに田口要作は千代子を監視しています。ただ美しいだけではなく、田川敬太郎に本来の任務を忘れさせるほどの輝きを放つ娘を持つ親としては探偵くらい当然のことかもしれません。この千代子と松本恒三に肉体上の関係はあるのでしょうか。
なさそうだ、とまでは言えます。
しかし「交際」はありますね。「二人きりの交際」です。そして宵子の死の下りをみれば家族ぐるみの交際もあります。まあ親戚としては仲が良い方でしょう。叔父さんと姪は普通二人っきりで食事などしません。
[余談]
谷崎潤一郎の『痴人の愛』に、「パッシヴ・ヴォイスとアクティヴ・ヴォイスの区別さえも分らないとは」と英文法の話が出て來る。「パッシヴ・ヴォイスの組み立てや、サブジャンクティヴ・ムードの応用法」なども出て來るのであくまでも英文法の話だ。その前に英語学習の基本的な姿勢として、
などと云われているのでやりにくい。しかしパッシヴ・ヴォイスとアクティヴ・ヴォイス、サブジャンクティヴ・ムードと言われると谷崎潤一郎の描く捩じれたマゾヒズムの世界の成り立ちや、「物語る」という行為の根本的な意味について考えさせられないわけにはいかない。
谷崎潤一郎の描く捩じれたマゾヒズムの世界の成り立ちに関してはあまり買いかぶり過ぎてもいけない。いけないとして、やはりそこに「受動態・中動態・能動態」あるいは「中動受動態」といった概念を持ち込むことで整理が付きそうな感じがする。
例えば私はナオミを全裸にするのは男性マゾヒストとして失格だと書いた。しかし河合譲治の恥は自分妻の裸が晒しものにされることによって起こるもの、拡大された自己のパブリックなフラッシュであるとしたら、デツクをフラツシュせずとも、それでもマゾヒストの条件を満たすと言えるかもしれない。常に絶対の我と彼の関係があるわけではなく、ことに「夫婦」という関係性にあって外部と向き合う中ではそこには「受動態・中動態・能動態」とトランスレートしてはいけないものがあるのではなかろうか。
ある意味それは確固たる現実などでもない。ナオミは浮気をした。それが現実ではないのだ。それは過去だ。ナオミと河合譲治の関係はサブジャンクティヴ・ムードの中にある。
本を買う人≒年寄りで馬鹿?
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