心地よかったはずのルーティンに飽きた
玉野に移住してから、自分の暮らしをもっと楽しむためにルーティンをつくった。5時に起きること。起きてすぐストレッチをすること。溜まっている連絡を朝のうちに確認すること。早い時間に仕事を始める代わりに、16時には仕事を終えること。夕方からは自分の時間を過ごすこと。22時に寝ること。
自分時間は確保され、人と出会う余白も生まれ、たしかに暮らしは楽しくなった。でも3ヶ月経って、このルーティンがなんとなく自分を縛っているような気がしている。いや、もっと正直にいうと、たぶん飽きている。
一旦ルーティン辞めちゃえ。と思い立ったのが、昨日のことだった。
◇
自分が縛られている気がする。そう思ったのは、仕事で書く量が増え、納期が迫ってきた頃だった。
書いても書いても終わらない、久しぶりの感覚。ありがたい話だ、幸せなことだと思うからこそ、沸々と湧いてくる「しんどい」の感情に、なんて失礼なんだと思うようになってしまった。
とはいえ感情を無視できない私は、とりあえず「しんどい」と言葉に乗せて発してみた。けれど、心の底から「しんどい」を言えていないことには、当然ながらすぐに気がついた。分かっていたんだ、「しんどい」と言ったところで、誰かが代わりに仕事してくれるわけでもないし、むしろ自分がやりたい仕事だからやりきりたいと思っていることを。
というさまざまな感情が、私の体のなかで右往左往していた。
気持ちの「動」が激しいとき、私は決まって「静」、つまり変わらないものに縋りたくなる。今回の場合はそれが、移住したときに決めたルーティンだった。
ところが、縋りたくなる頃なんて時すでに遅し。ルーティン通りに過ごすと、「追われる日々が今日も始まる」と余計にしんどくなり(実際、そんな深刻な納期の迫り具合ではないのだけれど)、過ごせないなら過ごせないで、自己嫌悪がどろっとした塊になって心に残った。
「やりたいこと」として始めた仕事なのに。確実に進められているはずなのに。何か歯車が合わない。そんな感覚だった。
◇
昨日、あるブログに出会った。書かれていた言葉が、今の私の腑に落ちた。
なるほど、今の私は仕事を通して未来を見つめすぎて、過去置き去りにしたことが見えていないのかもしれない、と。
やりたいことって、未来の話だけではないよな、と。
私のやりたいことって何だっけ。と思い直していたら、ルーティンを決めた理由が頭をよぎった。
暮らしとはつまり、衣食住のこと。「暮らしのなかの働く」を目指しているのに、そういえば最近、あろうことか暮らしのあれこれがめんどくさくなっていた。
これだったか、と気がついたら行動は早くて、普段なら夜にはやらない自炊や掃除などをせっせと行った。すると、「しんどい」の感情はいつのまにか見えないくらいに小さくなったのでした。仕事の状況は変わっていないのに不思議。
◇
たぶん私は、仕事においても私生活においても「こうしたら良くなるはず」を叶えるためのルールづくりが得意なのだと思う。得意だからつい、決めたルールを拠り所として縋ってしまうのだけれど、一方で私は飽きやすいから、自分が楽しく暮らせるように、飽きさせない工夫が必要だった。
飽きさせない工夫のひとつが、ルーティンを辞めること。自分で作ったレールを、自分から外れていくこと。8月後半、これをやってみたいなと思う。
早速今日は、ゴミを一つの袋にまとめ、ゴミを出すところからスタート。いつもなら、起きてすぐにはやらないこと。小さなことから少しずつ、飽きないように、暮らしの工夫してみようと思います。
(台風がきていますね。岡山にも近づいていますが、私が住む地域の雨風はまだ強くないです。どうかみなさん無理せず、ご無事でお過ごしください)
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