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13年以上探していた、「帰りたい場所」での葛藤【2023年振り返り】

ずっとずっと、探していた。「帰りたい」と思えるような居場所を。

明確に探し始めてから、13年以上経っていた。ようやく探し当てたその場所は、岡山県玉野市だった。この春、私が移住した地である。


「やっと見つけた!」と、本気でそう思った。

でも、そう思った先には、大切なひと・もの・こと・場所との関係を「続ける」ということの道が待ち構えていた。とてもむずかしいと思った。


そもそも私が居場所を探すようになったのは、高校に入学して2ヶ月くらいが経ったときのこと。

当時は祖母と母と住んでいたのだけれど、意思が強かった祖母とどうしても反りが合わなくなり、母とともに家を出た。その何ヶ月も前から険悪ムードではあったが、実際に家を出ると決めたのはかなり急だった。

そして直後、祖母とは縁が切れることになる。


あまりにあっけなかった。「家って、血縁関係って、こんなもんか」と思った。「世の中に『絶対』なんてないんだな」とも思った。

正直、小学生くらいから家にいるのが好きではなかったけれど、本当は家を居場所だと思いたかったし、本当は祖母といる時間も精神的な居場所だと思いたかったのだろう。今ならわかる。


でも現実は、信じたかった関係があっけなく壊れ、帰る場所がなくなり、何を信じればいいのかわからなくなっていた。「またいつか、居場所だと思うものはなくなるんだろうな」と思いながら、その怖さとずっと戦う人生が始まるんだとも悟った。

これは私の人生グラフが、どん底だったときのこと。


でも、このとき決めたことがある。

いつなくなるかわからないのなら、「自分の居場所は自分で探そう。そして、居場所をつくれる人になろう」と。

何度も何度もこの言葉を自分に繰り返し言い聞かせながら、形のない不安と怖さを打ち消すように生活した高校生時代だった。


それから私は、いろいろな場所に住み、いろいろなコミュニティに属しながら、ずっと居場所を探していた。居場所のつくり方も、無意識に観察していた。


初めて一人暮らしをしたのは、静岡県浜松市。わりとあたたかな気候だったけれど、潮風が強くて大変だった。人情に厚い地元の人の気質も魅力的ではあったが、すべてを受け取れるほどの器を私は持ち合わせていなかった。少し申し訳なかったのを覚えている。

大学の学科にはあまり馴染めず、自分を開示できなかったけれど、部活であれば開示できた。私が部長のときには「私とみんなの居場所をつくろう」と思って、不器用ながらにがんばったこともある。

また学外のボランティア活動では、「ありのままの私」を許してくれた。私の理想的な居場所だった。こんな場所を、いつかつくれるようになりたいとも思った。


新卒での配属地、大阪や京都は、物理的に便利すぎて、この地が自分に合うか合わないかは判断がむずかしかった。

そしてまたもや、会社では自分を開示しきれなかった。ありのままで話せない自分に、毎日もやついていた。でも、仕事のメインだった接客は好きになれた。そういう意味では救いだったし居場所になった。


次の配属地、鳥取では、今まで以上に自分を開示できなかった。仕事は好きだったけれど責任感に押しつぶされ、周りにも頼れず、体調を崩した。なんとか立て直せたものの、山陰特有のどんよりとした天候で暮らし続けるのは、私にはむずかしかった。


そして会社を辞め、岡山に来た。最初に住んでいた奉還町というまちも好きだった。岡山駅のすぐ近くなのに、下町ならではの素朴なかんじが残っているのが好き。ただ、小さなまちだからか、なんとなく行動しにくかった。このさじ加減が、とてもむずかしいことを学んだ。


そして玉野へ。私の居場所をついに見つけた。

瀬戸内海が、いつも変わらずそこにあることは、想像以上に救いになった。風がおだやかで、あたたかな気候も自分に合っていた。玉野も小さなまちではあるけど、港町ならではの開放感があり、「中の人」「外の人」という概念すらあまりなかった。

対等に人と接しつつ、個人のテリトリーをしっかりと守ったうえで、関係性を築き合っている玉野の人たちの絶妙な距離感に触れた。そのとき、「私は私のままでいいんだ」と思えたのだった。

こうして玉野は私にとって、精神的にも物理的にも「帰りたい」と思えるような居場所になった。これは間違いなく、私の人生のハイライトである。

そしてもっと大きかったのは、帰りたいと思えるような居場所との出会いにより、「続ける」ということを自然と視野に入れていたことだった。


これまで書いてきたように、私は住む場所を転々としていた。そして、人間関係もブツ切り状態になっていた。

当時は気づいていなかったけれど、私のなかで潜在的に「失う怖さ」があって、人間関係を続けるということを、大切な人であればあるほど無意識に避けてしまっていた。

また自分に自信がなかったうえ、周りからどう思われるかを気にしすぎていたから、2〜3年をなんとなくやり過ごして、いなくなるくらいがちょうどいいと思っていたのだ。



でも。

私は今年、帰りたいと思える大切な居場所を見つけた。そこで、心を許せる大切な人たちに出会った。私はこの場所と、この人たちとの関係を、素直に続けたいと思っている。

続けるということは、この場所や人を好きでい続けることだと私は思う。いい面も、見たくなかったと思う面も、すべてをひっくるめて許し、愛し続けることだと思う。

そのためには白か黒かのはっきりとしたものだけではなく、グレーという曖昧さも内包するということ。内包するためには、自分を信じ、周りを信じる強さが必要だということを、痛いくらいに感じた1年だった。


人との関係だけではない。瀬戸内海をはじめ、玉野をとりまく自然環境も続いていってほしいと願う。だから私は関係性を続けたい人や場所のために投資できるようになりたいし、そのために稼げるようになりたい。お金と自分との想いを循環させることが、今の私が一番やりたくて叶えたいことである。



移住は怖かった。でも、移住したら幸せでいっぱいになった。同時に、この幸せが続くためにはどうすればいいかを考えるようになった。その道は果てしない。葛藤の連続。

それでも、2024年の私は、続けるということを少しずつ形にできたら嬉しいなと思う。


何はともあれ、玉野と玉野の人に出会えて本当によかったなぁ。









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