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雲を例えて遊んでいる
口を開けば海のことばかりを話してしまうが、思いのほか空も好きらしい。空の写真を撮っている時にふと、私はなんでカメラを構えているのだろうと我に返った。
空というか、雲を観察するのが好きなんだと思う。雲の形を何かに例える遊びを、無意識にやっていると気がついたのは最近だった。
そういえば、会社員時代に同じ職場の人と並んでバスを待っていた時も、雲を観察し、例えていた。
「雲、すごいですね」
「なんか生きてるみたいだね」
「あれ、スヌーピーの横顔に見える!」
「えーすごい、たしかに!」
その癖?は、今も変わっていないらしい。
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うまく例えたいわけではなく、何に見えるかな〜とぼんやり考えている時間が純粋に好きらしい。結構楽しいので、よかったらやってみてください。
何が言いたいかというと、生産性のない時間って、実は生産性あるよねと思っている話。
空を見て、ぼーっとして、どうでもいいようなことを考えている時、私にはつい「この時間何なんだろう」と思うあまり、“ぼーっとするモード”を遮断してしまうことがある。
一方で、心の底からぼーっとして、どうでもいいことも大真面目に考えてみると、その時には意味がなくても、あとから何かが生まれる種を作れるように思う(芽が出るかは話が別だけれど)。
私はここ数日せかせかしてしまっていて、穏やかな瀬戸内海を見ても心落ち着けず、何だかなあと思っていた。ふと空を見上げたら不思議とぼーっとできて、雲の形を考え、一人でワクワクしていた。
ぼーっとすることが、できるタイミングとできないタイミングがある。私はせかせかするのが好きではないので、できればずっと、ぼーっとできるタイミングが手元にあってほしい。けれど、そう上手くはいかない。
だから、「◯◯すればぼーっとできる」とイコールで繋がる何かがほしかった。現状それに近いものは、空を見ることなのかもしれないと思っている。
せかせかしていても、実は何も生まれない。ぼーとできるくらいの余白の中に、のちに何かを生む種があるはず。それを信じて、せかせかしそうな時こそぼーっとしたいと思う。
あ、雲を例える遊びに付き合ってくださる方はいつでも募集しています。笑