![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/155007214/rectangle_large_type_2_36cbd4528ba0278dce57bc88de527036.jpeg?width=1200)
適応障害のとき、米津玄師に救われた【全文無料】
社会人2年目の年明け。
仕事に行けなくなった。
年明けと書いたが、年が変わる前から予兆はあった。
社会人1年目の夏に性被害に遭ってPTSDと診断されてメンタルクリニックに通い、性犯罪被害者支援センターの方とも電話で何度もやり取りを続けながらも、警察での調書取りや実況見分のときを除いて仕事は一切休まなかった。
新卒で銀行員として働いていた。
ここで休んでしまったら、周りから何歩も遅れてしまうと、もはや意地だったのだと今になって思う。
当時、支店内で事件のことを知っていたのは直属の上司(女性)と、支店長(男性)、次長(男性)の3名のみ。上司はたびたび私のことを気にかけ、配慮してくださった。
しかし2年目になるときに上司は転勤となり、私は異動で係が変わった。
1年間担当していた融資係は、よく関わる渉外係も含めて男性が多いところだった。女性は上司とパートさん、私だけ。男20に女3くらいの割合で、新卒1年目の女となると可愛がってもらっていたように思う。
そこから一転、配属されたのは窓口テラー・個人渉外。
言わずもがな、女の園だ。
この頃にはメンタルクリニックに通うことも、性犯罪被害者支援センターの方との電話もやめてしまっていた。自分がいつまでも『事件の被害者』として扱われることが嫌だった。
また、『被害者』として扱われているうちは事件のことを嫌でも思い出さなければならない。
もう、すべてを忘れてしまいたかった。
上司は転勤するとき、私の異動先の個人渉外の上司にも、事件のことを伝えておくか訊いてくれた。異動先の上司も女性。少し悩み、伝えていただかなくても大丈夫です、と返した。
自分はもう、事件のことからは立ち直れていますとアピールしたかった。そして、事件のことを周りにまで背負わせたくないという思いもあった。お世話になった上司が、かなり心を砕いてくださっていたことをひしひしと感じていたから。
こうして、私の事件のことを知っている人は支店長と次長のみとなった。
ちなみに、不運なことに、事件が起きた翌日、警察での調書取りで休んだ日に本社で組まれていたのがテラー研修だったため、研修なしの生身の状態で、ポーンっと女の園に放り投げられることとなった。
そうして、見事に病んでしまった。
︎✿ ︎✿ ︎✿
病むまでの詳しい経緯は、また別のところで書こうと思う。
兎にも角にも、異動してからというもの私のメンタルは大不調だった。
慣れない業務、女性特有のギスギスとした環境、資格取得のために土日も勉強して、1年目のときはないに等しかったノルマも2年目からはしっかりある──事件のことがなかったとしても、病んでいたかもしれないということはさておき。
メンタルの不調は私の脳に事件のことを思い出させたようだった。
当時のことを夢で見るようになった。
必死に叫ぼうとしているのに声が出ない。
助けて、助けて。
ハッとして目覚める。当時同棲していた彼氏(今の夫ではない)が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫? 聞いたこともない声で叫んどったけど……」
そういえば喉が痛い。ひとりカラオケ4時間コース行ったんか? というくらいにはヒリヒリしていた。どうやら現実世界では深夜に大絶叫していたらしい。
こんなことが連日続くようになり、眠るのが怖くなった。眠れなくなってから生活が崩れるのは早かった。
通勤中の車内でなぜだか涙が止まらなくなり、職場の駐車場についても時間ギリギリまで車から降りられない。資格試験のテキストを読めなくなり、試験は無断で行かず、後日、次長に叱られた。自分で言うのもなんだが、これまでの学生生活、ずっと『真面目な子』で通ってきた自分が、試験をサボるなんて考えられなかった。
次長にはこの際、「もう精神科には通ってないんでしょ? だったら事件のことは終わったものとして、仕事に邁進してください」と言われた。
『終わったもの』?
私はまだそれに苦しめられているが?
でも、メンタルクリニックに通わないと決めたのも私だし、事件のことは終わったとして扱ってほしい素振りを見せたのも私だ。
いやいや、とはいえ、『終わった』と言っていいのは私だけでは? と憤慨した。
表情にも言葉にも出せなかったけど。
そんなこんなが積もりに積もって、年末年始の休みを終えて、『もう仕事には行けない』と布団の中で唐突に思った。
休まないと駄目だ。
でも、職場に連絡するのが怖い。
2時間は悩んだと思う。出勤するならそろそろ支度を始めないと間に合わない。緊張で痛くなってきたお腹にぎゅっと手をあてて、職場に電話をかけた。体調不良で休みます。そう伝えてもぎ取った休みを、有効に使わねば。
市内の精神科・メンタルクリニックすべてに電話した。すべて当日受診は断られた。知らないところでみんな病んでるんだなと謎に励まされた。
続いて、隣の市の病院に移って電話。1箇所、待ち時間は長いが当日診てもらえるところを見つけた。
2時間は待ったと思う。事件のこともすべて伝えた上で、仕事がきっかけで事件の夢を見ていることから、診断は適応障害となった。診断書を出しますから休職した方が良いですね、一度ゆっくり休んでください、と言われたとき、心底ホッとしたのを覚えている。
︎✿ ︎✿ ︎✿
こうして休職期間に入ったわけだが、休み始めたからといってすぐに良くなるものではない。
私を1番苦しめたのは、睡眠障害だった。
睡眠導入剤と抗うつ剤、合わせて4種類くらいを飲んでいたがまったく眠れなかった。
24時頃、寝ようと思って布団に入り、眠れないままカーテンから射し込む光を見て朝がきたことを悟っては絶望していた。
最初こそ何もせずに目を瞑って眠れることに期待していたが、どうせ眠れないのでいつしか朝が来るまではスマホをいじるようになっていた。
数あるSNSの中でも、Twitterは良かった。
どれだけ深夜でも、誰かが起きている。フォローもしていない知らない人でも、自分の他に起きている人がいるという事実で安心できた。
休職前はTwitterもろくに見れない日々が続いていたため、最近みんなどうなんだろうと、自分がフォローしている人達のホームをひとつひとつ覗いていった。
フォローしている中に、米津玄師の名前があった。
高校生の頃、まだ『ハチ』の名で活躍していたときから彼の創る音楽が好きだった。彼の紡ぐ言葉はなんて綺麗なんだろうと思っていた。
そんな彼がライブをするらしい。
【脊椎がオパールになる頃】──意味は分からない。分からないのが彼らしいな、と思った。
HPに飛ぶとチケットの抽選は終わっていたが、トレードが行われていた。今の米津さんのライブではトレードは抽選だが、当時は先着だった。ライブに行けなくなった人がチケットをキャンセルする、そのチケットが販売されたタイミングで運良くサイトを開いて人が購入できるという仕組みだったのだ。
毎晩そのサイトのリロードを繰り返すようになった。ライブに絶対行きたいというわけではなかった。というか、それまで誰のライブにも行ったことがない人生だったため、せっかく時間があるのだからちょっくらライブとやらに行ってみるかな、くらいの軽い気持ちだった。
数日続けたある晩、チケットが取れた。
否、取れてしまった、という動揺が大きかった。
『Lemon』大ヒット直後のライブだったため、取れないだろうと勝手に思い込んでいた。
人に会わない、外に出ない生活をしているのに、仕事にも行けていないのに、ライブになんて行って大丈夫なのか、という恐怖と罪悪感が今さら襲ってきた。
それでも、何もない日々を続けたところで何も変わらない。少しの変化を求めて、私は人生で初めてのライブに足を運んだ。
︎✿ ︎✿ ︎✿
高校生のときから米津玄師が好きだと書いた。しかし、ライブに参加したことはなかったのは、私がライブに対して偏見を持っていたからと言える。
歌を聴きたいならCDでいいし、ライブ特有の「アリーナァアアァア!!!!」みたいな、すべての言葉にビックリマーク付けて喋ってそうなあの空間が無理すぎる。と思っていた(ただのド偏見です)。
そんな私を迎え入れたのは、圧巻のパフォーマンスと、どこか神聖な空気感。
えっ……ライブってこんななん……?
想像していたライブではなかった。
例えるならば、ミュージカルというか、ひとつのアートというか。
米津玄師がライブ冒頭でこう言った。
「今日はお互い、人生で1番美しい1日にしましょう」
『美しい1日』なんて、これまでの人生で口にしたことのない並びだ。
しかし、その言葉は正しかった。確かに私が過ごしたのは『美しい1日』だった。
今回はライブレポではないので割愛するが、ライブ詳細が気になる方はアルバム『STRAY SHEEP』のアートブック盤同梱DVDに、このライブがMC込みでフル収録されているのでチェックしてほしい(唐突な宣伝)(私が宣伝なんかしなくとも売れてる)。
前置きが長くなった。ようやく、本題へと入る。
その曲はライブ中盤、鐘の音が鳴り響き、カタカタカタカタ──という不気味な音から始まった。スモークがたかれ、別世界へ誘われる。フードを被ったダンサーの中心で彼は歌う。
お願い ママ パパ この世に生まれたその意味を
教えて欲しいの わたしに
悲しい思い出はいらないから ただ美しい思い出を 祈りの言葉を
マイクを両手で持っている姿は、まるで神に祈っているようだ。(YouTube 0:36~)
これは、こんな歌だったのか。
『amen』は『LOSER』『ナンバーナイン』の両A面シングルのカップリング曲だ。
もちろん、ライブ前から聴いていたが、正直に言うと──暗いし、宗教色たっぷりの歌詞の意味もよく分からないし、なにより一緒に収録されている『LOSER』が好きすぎたあまり、こちらはそこまで聴いてこなかった曲だった。
その曲に、脳みそを直接鷲掴みにされたような。
視覚から、聴覚から、すべてを一気に乗っ取られたような。
気付けば私の目には涙がたまっていて、スモークでぼんやりとした視界を更に歪ませた。
生まれた意味? なんだろう? あるのかな? 知らない男に乱暴されて。職場では心無い言葉に傷つけられて。ろくに仕事もできずに休んで迷惑をかけている。
生まれた意味? ないかもな。あったら教えてほしいよな、ほんとにさ。でも、悲しい思い出ばっかではないよ、そういえば。ちゃんと両親に愛されて育ったよ、私。上司は気にかけてくれて、休職してから心配の連絡をしてくれた先輩方もいる。気晴らしの遊びに誘ってくれる友達もいる。ねぇ。意外と大丈夫なんじゃない? 今日も、ここに来るのは少し迷ったけど、来たことで前に進めたでしょ。こんなに素晴らしい体験もしてるじゃん。
嫌な過去にずっと浸ってる意味ってある?
──とまぁ、頭の中でワーッと考えたわけでして。そしたらサーッと脳内空間の靄が晴れていったわけでして。なんだったら晴天に虹が架かってるくらいすっきりした。
もちろん、この曲を聴いたことで不眠が治ったとか、嫌な夢を見なくなったとか、そんなことはない。そんな怪しい効能はない。現実は地続きなので、ここでバツンと場面が切り替わって、今は素晴らしい人生を送っています♡ なんてこともない。
けど、確かに救われたんだ、私は、この日。
もうずっと暗い中を手探りで歩いていて、ゴールがあるかも分からなかったのに、「ゴールは確かにあるよ。懐中電灯は貸してあげる。だから、自分で辿り着けるように頑張ってみてよ」と、直接的な助けではないかもしれないけれど、今後ずっと自分を助けてくれるアイテムと助言をもらった気分だった。
自分にとってあの空間が強烈過ぎて、ライブ後はトレードに張り付き、『脊椎がオパールになる頃』のライブにはあと2回行った。
ちなみに、意味はわからないと書いたこのツアータイトル名の由来は、「ツアータイトルを決める時期に書いていた曲の冒頭」なのだと、1回目のライブ時に米津さんが話していた。
その曲は『STRAY SHEEP』に『優しい人』というタイトルで収録されている(歌詞が変わったそうで、脊椎が〜という節はなくなっているが)。じわじわと蝕んでくる遅効性の毒入りの曲なので、聴いたことのない人は気をつけて聴いてほしい。
……なんだかまとまりのない文章になったので締めに入ろう。
米津さんのライブは、その後コロナで中止となった『HYPE』(2daysできるはずだったのに……)を除いてすべて参加している。来年開催予定の『JUNK』も、先日一次抽選で運良くチケットが当たったので行く予定だ。
最新曲『がらくた』は、映画の予告で初めて聴いたときから何度も聴いて、何度も泣いている。
事件からもう何年も経っているが、未だに当時のことを夢に見て飛び起きることがある。
多分、これはもう一生なんだろうと思う。
例えばあなたがずっと壊れていても 二度と戻りはしなくても
構わないから 僕のそばで生きていてよ
──私は今も、米津玄師に救われている。
Thank you for reading!!
こちらはご購入いただかなくても
全文無料で読んでいただける設定にしています。
応援したいと思ってくださった方は、
よろしければ記事の購入、サポートを
していただけますと幸いです。
いいね、スキ、拡散だけでも、
とてもとても嬉しいです!
またページを覗いていただけたら幸いです︎︎︎︎︎☺︎
ここから先は
¥ 100
サポートありがとうございます! いただいたサポートは夫には内緒で、娘のために使わせていただきます。