見出し画像

アメリカ居住時代が私にもたらしたもの(帰国子女の回想)

 本noteはとある帰国子女の回顧録となっている。
2001年7月から2003年8月まで父の仕事の都合でアメリカに住んだ。
2年間、8~10歳の私にいろいろなものを与えて、その後の人格形成に大きな影響を与えたので改めてまとめてみたいと思う。

①    言葉・文化への飢えと情報中毒


 インターネット黎明期、SNSも普及していない時代。日本の漫画を英語翻訳しているものは地元の本屋で1冊15ドル。流行りの音楽も聴けない。見ることができる日本語のテレビは平日昼にやっているNHKのニュースだけで、日本のアニメ作品はすべて英語で話数も物切れだった。
 学校には日本人は私と弟だけで、日本語を話すことができるのは、ランチタイムに校庭で子供の様子を観察する仕事をしている友人ケイティの母のみだった。(日本に1年留学していたらしい)
 英語がわからず、たちまち言葉に飢えた。小学3~5年生が読むような本なのかわからないものも関係なく、読んだ。立原えりか、星新一は一般的かと思うが、不倫を描く三浦綾子「ひつじが丘」まで読み、カオスなラインナップになった。

 邦楽も聞けなくなった。小5の姉が渡米前に行った自然学校のレクリエーション用に作成したカセットテープ10数曲をすりきれるまで聞いた。他の邦楽は姉が週一土曜日開催の日本人学校に通ってからできた友人にコピーしてもらったCD、ダビングさせてもらった紅白歌合戦のビデオでしか聞けなかったので2001年後半―2003年前半にはやった音楽、テレビはすこん、と抜けている。
 口ずさむ歌ももともとは誰かのJ-POP作品だったはずなのに、記憶があやふやになっていて、どんどん自分でアレンジをして歌詞を変えていってしまう。新しい曲だと思ったらaikoのヒット曲だったこともあった。

 好きだった漫画も満足に読めなくて、自分で妄想をしてどんどん広げるしかなかった
 その結果か、帰国後テレビっ子になり、ネット中毒になり、現在もインターネット依存症となっている。

②    表現をしなきゃ埋もれる(死ぬ)

 考えるよりも先に話していて、以前の自分はこんなにおしゃべりじゃなかったのにな、とたまに思う。

 言葉が通じない世界に行くと、透明人間のような感覚になる。そして同時に体が痛くなる。言いたいことが言えないときはのどが痛い。鼻血を鼻から出せずのどから通すときのざらざらとした痛みと同じものがどんどん蓄積される。さらにそれを放置するとおなかに鉛板のようにずしんと溜まっていく。
 そんな感覚をしばらく抱いた結果、転校して数カ月私は急に音楽の授業中に日本で習いごとに通っていたバレエを踊るようになった。地元の教室主催のバレエ発表会で踊った、チャイコフスキーのくるみ割り人形が流れると衝動的に表現をはじめた。絨毯の上にみんな胡坐をかいて座って聞く授業だったと思うので、教師もクラスメイトも驚いていた。ただアメリカは懐が広い人が多かったのか、日々無言でうつむいてるアジアから来た少女が活動的になっているのを見て拍手をくれた。

 私にとって表現することは、そこに存在していると主張することで、かつ相手のリアクションを見ることで自分が本当にこの環境で生息していることを認められることなのかもしれない。
 日本に帰ってきて、自分はおしゃべりなのかと驚くことが多い。その場に参加しているという意思表示をしたいがために話しているのだが、人の分量も奪ってしまう時があり、日々反省している。と同時に自分の過去の葛藤、生き抜く方法だったものが癖になってしまっているのだなと受け止めている。

③    金・自立


 アメリカは日本よりも子供を保護するものとしていた。子供だけでは街を歩けないから、友達の家に遊びに行くのも、習い事に行くのも親が送り迎えをしていた。
 両親がときどきけんかをする。そのとき家を出たくてたまらないが、私は子供だから一人で家も出られない。日本と違って電車も通っていない。お金だってアメリカドルでは数十ドルも持っていない。手元にある祖父母がくれたお小遣をためた2万円なんて、換金しないと役に立たない。何かをしたくてもできない苦しさを覚えた。

 私が成人になるころ、メディアで若い人間は家を出たがらないという話がたびたび取り上げられていた。実家の居心地がいいからなのか、金銭的な問題によるところなのかわからないが自身には全く当てはまらないなと家でおやつを食べながらその話を聞いていたのを覚えている。小学5年生ごろから日本に帰ってから家に投函される中古マンションのチラシを見るようになっていたからだ。その時点から家を出ることを考え始めていた。
 家族を円滑にすることにつかれ、受験へのプレッシャーで胃痛を抱えながら県外進学のため勉強にいそしんだのは家を出て、自立したいという一心だった。
 社会人になってキャッシュフローが安定してきてからも時々お金の不安は襲い掛かってくる。それは貧しい、暮らせないというのではなく、自立ができなくなったとき、自分の両足で立てなくなったときの恐怖感によるものだと自覚している。

④    こども時代の終了。優等生の始まり

 日本で週一英語を勉強したとて、日本人が誰もいないアメリカの現地校に行ってしまえば歯が立たないので大変だった。最初の1年がたってからだろうか、日本に帰国してからだっただろうか。ある日父に文句を言わずに学校に行ってくれて助かった、感謝しているといわれた。
 中学校に急に入学した反抗期真っただ中の11歳の姉や、まだまだ手のかかる時期の5歳の弟と比較して特に親に訴えることがなかったからだそうだ。
 私だって困っていたし、疲れていたので衝撃だった。ただ、そう思われているんだ、それで助かるんだとこれまでの自分の意思・感情だけで生きる自分軸のこどもから、親ないしは周りがどう判断するか、みているのかという他人軸が入ってきた。一所懸命日々を生きる子供から、少し俯瞰で見ていくように変わっていった。

さいごに

 今回の文章は自分のために何か書こうと思って選んだテーマだった。過去を振り返る文章を書くことで過去の子供時代の自分を癒したいのだと思う。
 自分の嫌なところって、見たくないものだが、それを身につけないと生きていけなかった葛藤を認めることになる。短所だと思うことは、その人が活きるために悩んで創意工夫した結果ではないかと振り返ってはじめて感じる。
 英語力や社会情勢による影響、人権意識など表面的な刺激もあったが、今回は子供が成長する過渡期に得た経験と感覚にフォーカスしようと根幹部分を見つめてみた。
 
 なお人に意外といわれるが、英語力はあっても英語は好きではない。生きるために死に物狂いで身に着けた手段に対して人は恋をできない。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?