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「すずめの戸締り」で開く「公共のとびら」

閉めるのか開くのかどっちなんだ!という突っ込みはさておき、この記事は新海誠の映画「すずめの戸締り」の考察をしながら高等学校公民の新科目「公共」の第一部「公共のとびら」のエッセンスを総ざらいするものだ。

新科目「公共」は今年度から始まった。何をどのように教えればよいのかが確立されていないから、全国の教員が手探りで進めているのが現状だ。暗記科目と化した旧「現代社会」を実質的に引き継ぐような形で行われている授業も一部にはあるだろうが、全国各地で独創的な授業が展開されていることだろう。
実は、この「公共」の導入に当たる「公共のとびら」のエッセンスは、映画「すずめの戸締り」の中ですべて描かれている。…と言ったら、驚く方もいるだろうし、現職の教員からは批判を受けてしまうかもしれない。的を射た批判も少なくないだろうが、あくまで「すずめの戸締り」の一つの解釈であり、同時に学習指導要領(公民編)の一つの解釈であるものとして、楽しみながら読んで頂けたら嬉しい。

※映画「すずめの戸締り」のネタバレを含みます。新海誠の過去作にも言及しますが、ネタバレはしないよう注意します
※「すずめの戸締り」からの引用は、新海誠『小説 すずめの戸締り』(角川文庫、2022年)を参照しています

第一章 少女の成長物語=公共的な空間を作る私たち

場所を悼むという発想はそのとき急に思いついたものではなくて、ずっと自分の中にありました。ちょっと大げさな話になりますが、そもそも日本と言う国自体が、ある種、青年期のようなものを過ぎて老年期に差し掛かっているような感覚があったんです。

 入場者特典『新海誠本』p.6

本作は、主人公のすずめが「後ろ戸」を閉めながら日本列島を北上していく物語だ。愛媛、神戸、東京、そして福島。それぞれの土地で「後ろ戸」を閉めるとき、かつてその地で過ごしていた人々の日常の声が聞こえる描写が印象的である。新海誠は、この作業を「場所を悼む」と表現した。

2016年放送のNHKスペシャル「縮小ニッポンの衝撃」が報じたように、人口減少に転じた日本ではこれから「集落を閉じる」という作業が当たり前になる。災害はあくまでそのきっかけに過ぎないが、災害はその作業を急進的に推し進める。すずめが鎮めた宮崎の旅館、愛媛の中学校、神戸の遊園地は、これから日本で当たり前の風景になっていくだろう。

それに対して、主人公のすずめは青年期の真っただ中にある。大人と子どもの狭間、心理学者レヴィンがマージナル・マン(境界人)と呼んだ発達段階だ。育ての親である環さんに守られ、依存している状態でありながら、過保護な環さんを疎ましく思い、自分ひとりの力で生きていけるという思いも芽生えつつある。一方で、震災の記憶と喪失感を受け止めきれず、「失ってしまった感覚」を心に抱え続けている。脚が1本欠けた椅子は、すずめの心の欠落のメタファーだという。(入場者特典「新海誠本2」p.9)

心理学者のエリクソンは、人は青年期にアイデンティティの確立という課題を突き付けられると考えた。自分は何者なのか、自分らしさとはどんなことか。誰もが抱える悩みでありながら、この問いに答えを与えてくれるのは自分しかいない。すずめは、自分のルーツである福島を訪ねることでこの問いと向き合い、答えを得る。

「大事なものはもう全部—ずっと前に、もらってたんだ」

『小説 すずめの戸締り』p.358

問いの答えは、必ずしも劇的なものであるとは限らない。すずめは過去の自分に「すずめはこの先、ちゃんと大きくなるの」(小説版p.355)という言葉をかける。亡くなった母親が復活する訳でもないし、「失ってしまった感覚」が解消される訳でもない。脚が欠けた椅子は最後まで脚が欠けたままだ。
それでも、すずめはちゃんと大人になる。人は喪失感を抱えたままでも生きていけるし、”そういうすべて”を自分の一部とすることでアイデンティティを確立させていく。

鈴芽は小すずめに「あなたは大人になっていく」と言葉をかけますが、立派な大人になると言っているわけではない。ちゃんと大きくなるというのは、それは誰でもそうですよね。当たり前だからこそ、そこには嘘がない。

パンフレット『すずめの戸締り』p.17

すずめが旅の途中で出会う人々もまた、「大人になっていった」人々だ。同い年でありながらすずめより少しだけ大人の世界に足を踏み入れている千果も、すずめより10年20年人生の駒を先に進めているスナックのミキとルミも、すずめと同じように災害を経験しながら、それを人生の一部として今日を生きていた。すずめは宮崎を飛び出したことで、被災経験は当たり前のもので、みな否が応でもその経験と隣り合わせで生きていることを知る。新海誠は、「来るべき厄災を恐れるのではなく、厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼りついている、そういう世界」(『新海誠本』p.4)として本作を描いたという。

酔って、歌って、大声でうさを晴らして、無神経なふりをしながらも誰かが誰かのことを思いやっていて――ああ、なんだか好きな場所かもと、ゆっくり私は思う。

『小説 すずめの戸締り』p.132

彼女たちは、他者との関わり方も心得ている、成熟した大人だ。

対照的なのが環さんだ。環さんはすずめの保護者として登場しているが、「失ってしまった感覚」との付き合い方がわからない。すずめが災害の記憶と正面から向き合えないのと同じように、環さんは自らの喪失の源である「すずめ」と正面から向き合えないでいた。何十通ものメッセージを送っても、それは保護者というロールから発している言葉でしかなく、本音を表に出したことはない。環さんもまた青年期の真っただ中にあった。青年期とは、年齢によって機械的に始まったり終わったりするものではない。

もしかしたら私たちが一緒に笑うために――私はふと思う。このために、サダイジンはあの場に出てきたのかな。

『小説 すずめの戸締り』p.305

すずめも環さんも、対話によって他者と関わることで青年期の課題を克服した。「自分は何者なのか」という問いに答えを出すことは自分にしかできないが、同時にそれは他者と関わることでしか為しえないのかもしれない。

『全体主義の起源』や『人間の条件』を著した哲学者アーレントは、他者と語り合い、複数の見方を学ぶびながら、自分が何者であるのかを表現することを活動と呼び、生命維持に必要な労働や耐久性のある作品を作り出す仕事と区別した。人間を人間たらしめるのは活動であり、人々の活動が行われる空間が公共空間である。また、『公共性の構造転換』を著した社会学者のハーバーマスは、公共圏(≒公共空間)を成り立たせるためには「誰かに/何かを/伝える」行為であるコミュニケーション的行為が必要であると説く。公共圏におけるコミュニケーションにおいては、社会的地位(ロール)を排除して参加者が対等に扱われなければならず、批判には寛容であり、参加者の選別はあってはならない。このような条件を満たすものとして、彼は17世紀ヨーロッパのコーヒーハウスを例に挙げた。コーヒーハウスで公共圏がはぐくまれたことが、ヨーロッパの民主化市民革命)を後押ししたのだ。

ユダヤ人であるアーレントとドイツの哲学者であるハーバーマスは、ナチスが敷いた全体主義(ファシズム)という支配体制を批判する過程で自らの思想を洗練させた。歴史上まれに見る残虐な政治権力の出現は、アーレントが言うところの複数性を否定し、異質な他者との対話を拒絶して排除しようとしたことによって生まれたという。ナチスは、戦前のドイツの法学者である学者であるシュミットの思想を利用した。シュミットは『現代議会政治の精神史的状況』の中で、「民主主義の本質は同質性であり、複数性と討論を本質とする自由主義とは緊張関係にある」として、民主主義は議会よりもむしろ独裁と結びつくと主張した。複数性を承認して他者との対話を重視する姿勢が欠けたとき、全体主義が出現する――思想家たちが導いた答えだ。

政治体制というマクロな社会現象が、究極的にはミクロな人間関係に還元されるとしたアーレントらの議論は面白い。結局のところ、人間が個人として尊重される世界を作るには、我々一人ひとりが目の前の他者を一人の人間として尊重するところから始まるのかもしれない。

「人の心の重さが、その土地を鎮めているんだ。それが消えて後ろ戸が開いてしまった場所が、きっとまだある」

『小説 すずめの戸締り』p.362

サダイジンは、「ひとのてで もとにもどして」(小説版p.295)と言う。厄災を鎮めることができるのは人の心の重さであり、要石であるサダイジンが独力で達成できるものではない。そして、それを託されたすずめがその使命を果たすにあたって、環さんとの対話(それは決して何かの解決を意味しない)は不可欠であった。(入場者特典「新海誠本2」p.8)

ミクロな人間関係とマクロな世界の命運が連動する…セカイ系と呼ばれる表現形式とその限界については、第三章で詳しく扱おう。

第二章 すずめの決断=公共的な空間における人間としての在り方生き方

「ひとが いっぱいしぬねえ」

『小説 すずめの戸締り』p..209

「今は――俺が要石なんだ」(小説版p.206)と気づいた草太は、自らをミミズに突き刺すことをすずめに求める。

呼吸が苦しくなっていく。さっきから全身の震えが止まらない。いやだ。もういやだ。こんなのって。
「もうやだよ――」
私は声に出す。心がぐちゃぐちゃになっている。目をぎゅっとつむっているのに、栓が壊れてしまったみたいに涙がだらだらと溢れている。私は両手に持った要石を、高く持ち上げる。目を開く。滲んだ視界でそれを見る。それはもう、彼じゃない。先端の尖った、それは氷の槍である。ゆっくりと目をつむる。それを振り上げる。
「うわあぁぁぁっ!」
体に残った全部の力を絞って、私は要石をミミズに突き刺した。

『小説 すずめの戸締り』p.210,211

より多くの人の命を救うために、目の前の人間をあなたの手で殺すか――典型的なトロッコ問題である。

トロッコ問題とは、現在も活躍中の政治哲学者サンデルが用いたことで広く一般にも知られるようになった、政治哲学・倫理学の有名な思考実験だ。(「ハーバード白熱教室」参照)

「あなたの目の前を、暴走してブレーキが効かなくなったトロッコが通過する。このままだと、線路上で作業をしている5人の作業員がトロッコに轢かれて亡くなるだろう。もしあなたが目の前の切り替え機を操作すれば、トロッコは軌道を変え、5人の命が助かる。ただし、別の線路上で作業をしている別の1人の作業員の命が失われるだろう。さて、あなたは切り替え機を操作するべきだろうか?」

判断がわかれるとしてよく持ち出される思考実験だが、人によっては「え、5人の命救うに決まっているでしょ?」と即決してしまうかもしれない。そんな人たちのために、臓器くじと呼ばれるアレンジバージョンもある。

「脳や心臓など、特定の臓器が機能不全に陥って死期が迫っている5人の患者がいる。機能不全に陥っている臓器は、それぞれ異なる。もし健康な一人の人間を解体して5つの臓器を5人の患者に分配することができたら、1人を犠牲に5人を救うことができる。では、ランダムに1人を選んで臓器を取り出して分配する”臓器くじ”を実施することは、倫理的に望ましいことだろうか?」

暴走トロッコのときよりは、「いや、まあより多くの命が助かるのは良いことだけど、それはさすがに…」と思う人が多くなるのではないだろうか。
すずめが直面した選択も、基本的には同じ構造をしている。数で言えばどう考えても関東の100万人を救う方が重要で、そのために1人を犠牲にすることは些細なことのようにも思える。それに、草太は「閉じ師」という特殊な使命を負っている存在だ。すずめは草太に恋心を抱いているから迷ってしまうのは仕方がないとしても、倫理的に望ましいのは多数を救う選択であるに違いない。

このように、数や量を基準とする発想は根強い。この発想の代表格が、哲学者ベンサムが提唱した功利主義(Utilitarianism)だ。ベンサムは、「最大多数の最大幸福」と言って、結果として幸福(Utility:功利、効用とも訳される)の量が最大化される選択が倫理的に望ましいとした。この考え方に基づけば、原則として少数を犠牲に多数を救う選択が支持される。

※なお、「幸福を最大化する」ことと「救われる命の数を最大化する」ことは厳密には区別されることにも注意しよう。功利主義の考え方に基づけば、圧倒的大多数の人の”利便性”のために人身事故(死)のリスクがあっても自動車を全面禁止しないという結論が導かれ得る。

功利主義の考え方は強力だった。そもそも、ベンサムが生まれた18世紀のイギリスは依然として階級社会で、言ってしまえば「1人の貴族の命は5人の平民の命より重い」という考えがあった。その時代にあって、「命の価値は等しい」として計数的に善を定めた功利主義は、多くの人にとって魅力的なものと感じられた。19世紀のイギリスで、平民に選挙権が拡大していくのと歩調を合わせるように、功利主義も社会に浸透していく。

だがちょっと待って欲しい。本当に数の問題として片づけてしまって良いのだろうか?「100万引く1は99万9999!」と言って何のためらいもなく草太さんをミミズに突き刺すすずめを、我々は「倫理的に優れた人」とみなせるだろうか?

功利主義は非常に強力な思想で、(経済学を通じて)社会の在り方を強く規定してきた。だが一方で、非常に強力だったからこそ、多くの哲学者の挑戦を受けた思想でもある。その代表格として、哲学者カント義務論を見てみよう。
カントは、「そもそも行為の正不正は、その行為の結果とは関係なく決まっている」と主張した(非帰結主義)。その上で、たとえ「多数の幸福」という高尚な目的のためだったとしても、人を手段として利用してはならないと説く。

「あなたの人格及びあらゆる他の者の人格における人間性を、つねに同時に目的として取り扱い、決して単に手段としてのみ取り扱わないように行為せよ」

イマニュエル・カント『道徳的形而上学の基礎づけ』

カントによれば、ある行為が正しいかどうかは、行為の帰結ではなく行為の動機によって決まる。正しいことだから為す、という義務の動機から為される行為だけが正しく、結果的に何らかのメリットをもたらすという打算的な動機から為される行為は正しくないという。なお、前述のサンデルはカントの義務論について、「義務の動機だけが行動に道徳的な価値を与えると言うが、義務の具体的な内容は明らかにしていない」と評する。(『これからの正義の話をしよう』p.147)

カントと並ぶ功利主義批判の代表選手に、20世紀アメリカの政治哲学者ロールズがいる。ロールズは1960年代のアメリカ―公民権運動やベトナム戦争を経験していたアメリカで、「公正(fairness)」とは何かを考えた。そんな中で彼が1971年に世に出した『正義論』は以後半世紀にわたって「正しさとは何か」を考える上での必読書とされている。
ロールズは、「最も不利な境遇にある人々に有利な差別だけは認められる」という格差原理を提示した。格差原理を正当化するために持ち出したのが「無知のヴェール」という思考実験だ。「無知のヴェール」をかけられた状態——つまり、自分の人種・性別・能力・性格などについて何も知らない状態で社会のルールについて議論すれば、誰もが「最も不利な境遇にある人々に有利なルール」に同意するはずだと言う。

カントもロールズも、功利主義に還元しきれない我々の道徳観に輪郭を与えてくれるし、ロールズの思想は福祉国家の理論的基盤とも言われている。一方で、彼らの思想がすずめの決断に何らかの示唆を与えるかというと、そうでもないのが実際のところだろう。
義務の動機に従えばすずめは100万人を犠牲に草太を救うことが正当化されるのか?(そんな義務があるだろうか?)
最も不利な境遇いある人々を救済するためだといって、要石をミミズに刺さないことはあり得るのだろうか?
結局、明確な行動の指針を与えてくれるのは功利主義だけなのかもしれない。数の問題ならシンプルだ。関東の100万人と目の前の1人、迷う余地はない。

「そうか、それで良いのだ!あなたが刺さなければ、昨夜、百万人が死んでいた。あなたはそれを防いだのだ。そのことを一生の誇りとして胸に刻み、口を閉じ――」
口調が強まっていく。空気を震わせるような声で、おじいさんは言い放つ。
「——元いた世界に帰れ!」

『小説 すずめの戸締り』p.241

しかし、本当に――100%確実に、一片の迷いもなく、100万人が救われることによって得られる幸福が、草太を犠牲にすることによって失われる幸福より大きいと言えるだろうか?
…そりゃあ言えるだろう、と思うかもしれない。では、暴走トロッコの場合ではどうか。臓器くじの場合ではどうか。犠牲になる一人の生への渇望が、5人のそれを上回らないと確実に言えるだろうか?

確実には言えない、と考えたのが経済学者のロビンズだ。彼は、異なる人間の間で幸福の量を比較することは不可能だと論じた。ある人が人生で得る幸福と、別の人が人生で得る幸福を比較して、どちらが大きいかを考えることは、難題であるというよりナンセンスなのだ。幸福に大きさは存在しない――あるのは同じ人間が2つの選択肢のどちらを好むか、つまり選好の順序だけだ。

ロビンズは、この考え方に基づいて功利主義を批判し、代わりにパレート基準という考えを提示する。パレート基準とは、誰かが得して別の誰かが損するような変化は常に改善とも改悪とも断定できないから、世界が良くなったと言えるのは「誰の幸福も悪化させずに、少なくとも一人の幸福が改善されたとき(パレート改善)」だけだという考え方だ。

パレート基準を採用すると、ミミズが落ちるに任せるのも一つの選択肢として浮上する。1人を犠牲に100万人が救われるのは、良いとも悪いとも言えないのだから、と自分に言い聞かせて――。

ちなみに、新海誠がトロッコ問題を題材にするのは今回が初めてではない。2004年公開の「雲の向こう、約束の場所」と2019年公開の「天気の子」でも、典型的なトロッコ問題が描かれている。この2作品で主人公がどのような決断をしたのかは、自身の目で確かめて欲しい。

第三章 セカイ系としての「すずめの戸締り」=公共的な空間における基本原理

見知らぬ100万人と思いを寄せる1人の命を天秤にかけて、すずめは100万人を救う選択をした。世界の命運が、一人の少女の選択に委ねられたのである。

このような、主人公たちの命運が世界全体の命運とリンクする物語をまとめてセカイ系と呼ぶことがある。(よく使われる言葉だが明確な定義がないため、差し当たってこの緩い定義で用いる)
「キミか、セカイか」という二者択一が切実に感じられるほど主人公が「キミ」に入れ込んでいて、一方でそれほどまでに入れ込んでいる「キミ」を犠牲にするような過酷な選択を主人公に対して迫る、そんな構図を作りたいときによく使われる表現技法だ。主人公にとって「キミ」が「セカイそのもの」と言えるほど大きな存在になるとき、物語としてのセカイ系が完成する。

「生きるか死ぬかなんてただの運なんだって、私、小さい頃からずっと思ってきました。でも――」
でも。今は。
「草太さんのいない世界が、私は怖いです!」

『小説 すずめの戸締り』p.243,244

(一般市民である)主人公たちの決断がセカイの命運を直接左右してしまうのは、端的に言って不自然だ。だから、セカイ系の作品では、それを不自然だと思われないようにするための設定の作り込みにおいて作者の技量が問われる。あまり具体的に設定を詰めてしまうと、国家・政府・行政機関が機能していないことが不自然に感じられてしまう。かといって、あまりに大雑把な設定だと切実さが感じられない(トロッコ問題はそのままでは物語にならない)。
「すずめの戸締り」では、神や霊的な何かを匂わせながら現実の町や災害を題材とすることで、絶妙な塩梅を実現していると言えよう。

さて、問題は、現実の社会はセカイ系のようにはできていないということだ。言い換えると、100万人の命がかかった重要な決断を、一介の少女に委ねたりしない。現実世界の人々は、多くの人の生命を左右する決定的な決断を下す”資格”をめぐって、巨大で複雑な統治機構――主に国会・内閣・裁判所から成る――を作り上げたからだ。

決定的な決断を下す際には、どのような道徳的判断基準に基づいてどのような決断が下されるのかだけでなく、誰がどのようにその決断を下すのかという点も問われる。功利主義、義務論、パレート基準——どの判断基準を用いれば良いのかを明確に決められないから、意見は一致しないことの方が多い。アーレントやハーバーマスは対話を通じて意見を通わせることの重要さを説いたが、具体的にはどこでどのような対話をし、”対話の後”で決断を下すのは誰なのか。

決断を下す資格を政治権力と言い、日本では民主主義立憲主義という2つの原理によって政治権力がデザインされている。
民主主義は一人ひとりが対等であることを基本原理とする。「一人ひとりが対等である」という基本原理を最も端的に具体化したのが、「一人一票」で行われる多数決だ。国会議員を選ぶ選挙や国会における採決など、現実の政治制度は多数決をベースに作られている。多数決は確かに「一人ひとりが対等である」という理念を体現してはいるけれど、常に正しい結論を導くとは限らない。「多数者の専制」を懸念し、少数意見を尊重することの重要性を説いたのが、フランスの政治学者トックビルルソーである。
同時に、多数派の利益を掲げて一部の人々が極端な負担を押し付けられないようにする工夫も必要である。そこで、「多数決をもってしても犠牲にしてはならないもの」を定め、それを基本的人権と呼んだ。基本的人権を守るために多数派の手足を縛るのが憲法であり、憲法によって政治権力(多数派の権力)を押さえつけるのが立憲主義だ。実によくできたデザインであるが、細部があまりに複雑であるため、全貌を理解するのが困難になってしまっている。

現代日本は、重要な決断を一介の少女に委ねない。「一人一票」の選挙で選ばれた議員議会で議論をし、少数意見も適宜反映させながら法律を制定する。同時に、議会で多数決をして首相を選び、法律に反しない範囲で首相が決断を下す。こうした国会や首相の決断は、違憲審査権を持つ裁判所によって憲法に違反していないか審査される。たった一つの決断に、様々な人の意向が様々なルートで反映されるのである。

――これがあまりに退屈なのだ。1億人の構成員がいる共同体で「一人一票」をやったら、自分の意向が最終的な決断に及ぼす影響はゼロに等しい。現実はセカイ系のようにはできていないから、ひどく退屈なものになってしまった。すずめの旅路がエキサイティングで目が離せないのとは裏腹に、自分が選挙で誰に投票するかは大して興味もそそられない”どーでも良いこと”に成り下がってしまっている。立憲主義とか違憲審査権とか、心底どうでもよい。そう考える高校生が多くても無理はないし、そう考えているのは高校生だけではない。

だから人々は、巨大な政治権力と対峙する主人公を求める。主人公と敵対勢力の戦いはエキサイティングで、目が離せない。ある人にとってはそれが2000年代の小泉純一郎元首相であり、ある人にとっては安倍・菅政権下での東京新聞の望月記者であり、ある人にとってはコロナ禍での吉村大阪府知事であったのだろう。彼・彼女は多くの人々にとって巨大な権力と戦う主人公で、別の多くの人々にとっては安定した秩序を脅かす侵略者であった(どちらの見方が現実をよく捉えていたかは、ここでは議論しない)。この対決図式を取り上げると視聴率が上がるから、テレビは好んで取り上げる。テレポリティクスの時代だ。最近ではYoutubeでのひろゆき氏の活躍が「エキサイティングで、目が離せない」ものの代表格かもしれない。

しかし、残念ながら恐らく、そちらに向かって歩き始めても「公共のとびら」にはたどり着かないだろう。

「人のくぐれる後ろ戸は、生涯にひとつだけ」

『小説 すずめの戸締り』p.244

「すずめの戸締り」は、一人の少女が100万人を救う英雄譚ではない。彼女がくぐった「後ろ戸」は、東京の巨大な「後ろ戸」ではなく、12年前のすずめがくぐった実家の小さな「後ろ戸」である。「すずめの戸締り」は、一人の少女が時間をかけて喪失感を受け止める物語だ。彼女のセカイには、はじめから自分と草太さんと、あとは環さんと他の何人かしかいない。
人は誰しも自分のセカイを持っている。議会や裁判所を通さなくても、そこには意見を異にする他者と関わり合いながら共存していかなければならない公共空間が存在している。「自分は何者なのか」という解かなければならない課題が存在している。クラスや部活や職場の人間関係の中で、私たちは小さな選択を繰り返す。そんな小さな決断の中でも、「一人ひとりが対等である」という考えを原則としつつ、「多数決をもってしても犠牲にしてはならないもの」を守る方法を考えるだろう。公共的な空間における基本原理は、日常の中にはじめから存在していたはずだ。

すずめは最後に、実家の小さな「後ろ戸」を閉めた。自分の人生の主人公として、彼女にしか閉めることのできなかった「後ろ戸」だったのだろう。
同じように、「公共のとびら」も手の届く範囲にある小さなものしか開くことはできないのだろう。身近にある小さな人間関係や公共空間にある些細だけれど切実な問題に向き合うとき、あなた以外の人間にはどうでも良いと思われるかもしれないけれど、あなたにとっては切実な問いに向き合うとき、「公共のとびら」が開かれる。

政治を無理に身近なものにするのではない。身近なところに公共空間があり、それを支える基本原理がある。視点を180度逆転させたところに、「公共の扉」の妙味がある。

おわりに 問題提起か、エンタメ的記号消費か

最後に、メタ的な観点も含めながら映画「すずめの戸締り」を論評しよう。

新海誠は、2016年に「君の名は。」を公開し、2019年に「天気の子」を公開した。それぞれの作品にはそれぞれのテーマがあるだろうが、「厄災」というテーマは通底しており、「すずめの戸締り」ではそれが最も直接的に描かれた。視聴者が現実世界で直接経験した、現実の自然災害がモデルとなっているのである。これを、どう捉えるか。

公開直後に、この問題はすぐに話題になった。新海誠自身も「東日本大震災を描いた映画」であるとはっきり言っているし(『新海誠本』p.9)、「3月11日」という日付も登場する。作中の緊急地震速報のSEは本物さながらで、思わず身体がこわばった人も少なくないのではないか。建物の3階に船が刺さっている描写は、被災当事者でなくても写真や映像で目にする印象的な絵だ。オープンカーに乗って東北に行くシーンで画面に映る「この先帰還困難区域」の看板は、今もなお福島第一原子力発電所の周辺に設置されている。以下に引用する小説版の描写は異様にリアルだ。(復興途上の福島を訪ねたことがある者ならわかるだろう)

道路は滑らかで凹凸のないアスファルトで、道路脇の白線や黄色いセンターラインは塗り立てのように眩しかった。でも通り過ぎる家々や商店はよく見るとすべてが廃屋で、どれも緑に半ば覆われていた。駐車場に停められた車も、開け放たれたままの窓も、ドア横に置かれたままのランチタイムの看板も、誰かの生活を一時停止したような奇妙な途中さで、道の両脇に無言のまま朽ちていた。そういう人の気配の消えた町の真ん中に、道路だけが綺麗に整備されてまっすぐに延び、その道をトラックだけが行き交っているのだった。

『小説 すずめの戸締り』p.266

こうした表現は、ついこの間までタブー視されていたはずのものだ。見た人が記憶を刺激されて動揺しないよう配慮して、津波の映像を流す際にはテロップをつけて事前に注意を促す配慮が続けられていた。本作では津波そのものの描写は無いが、前述のように建物の3階に船が突き刺さっている描写がある。これを予告なく画面に映すことは、配慮に欠けると考えられてきた表現であるはずだ。
だが、あえてこの表現を選んだのだと解釈することもできるのかもしれない。本作の主題は、「失ってしまった感覚」を乗り越える訳ではないけれど、そういう記憶も自分の一部にして「ちゃんと大きくなる」すずめの物語だ。
「ほら、あなたも同じでしょう?」と呼び掛けられているのかもしれない。11年と8か月という年月を経て、乗り越えた訳ではないとしても、地震の描写に対していちいち動揺しなくなったし、エンタメ作品として楽しめる程度には上手な付き合い方を覚えたでしょう?と。実際、描写の直截さを指摘する声はあるものの、作品全体として大きな炎上には至っていないし、興行的には充分に成功している。これはきっと2012年にはあり得なかったことだ。多くの被災者(11年前の災害の被害に遭った人を未だにそう呼ぶことの是非が問われている訳だが)もこの作品を見たはずだが、彼らの心の中に「ああ、確かに自分もすずめと同じように”ちゃんと大きくなった”んだな」という思いが生じたのなら、その試みは少なからず成功していると言えるだろう。

一方で、この映画は東日本大震災を忘れた非被災者(11年前の災害の被害に遭わなかった人を未だにそう呼ぶことの是非を問うべきだが)が臆面もなく震災をエンタメとして消費し始めた悪しき先例となるのかもしれない。新海誠本人も「ラブストーリーを求める十代に向け」て作ったと述べているし(『新海誠本』p.5)、映画は本質的にはエンタメだから、あからさまな震災の描写を用いたことを東日本大震災の商業利用だと見る向きもあるだろう。

遊園地でジェットコースターに乗って、地上に足を降ろすとホッとするあの感覚。エンターテイメントで死に接近することで、自分は生きていて良かったと思える。それが物語の素朴で根本的な役割だし、僕たちのシンプルだけど難しい仕事だ。

入場者特典『新海誠本』p.5

企画書に記されたというこの一節が、戦争を娯楽として消費する人々を揶揄した社会学者ボードリヤールの叙述とあまりに綺麗に対応するものだから、エンタメ的記号消費の自白に見えてしまったとしても無理はないだろう。

世界についての様々なイメージを目にするとき、束の間の現実への侵入とその場にいあわせないですむという深い喜びとを誰が区別したりするだろうか。

『消費社会の神話と構造』p.31

これが日常生活のいやらしさであり、ほどよい室温になったワインのように供されるなら、出来事や暴力が大好きなのだ。戯画的にいうなら、それはヴェトナム戦争の映像を前にしてくつろぐテレビ視聴者の姿である。

『消費社会の神話と構造』p.33

いずれにしてもわざとやっているのだとすれば、我々の感じ方の問題に過ぎない。それでも、この作品を観てマイナスの感情を抱く人々がいなかったのかどうか、どうしても気になってしまう。もちろんゼロではないのだろうが、その数がそれなりに少なかったとき、「ほら、あなたもすずめと同じように”ちゃんと大きくなった”でしょう」という呼びかけは、より説得力を持って本作の魅力を高めてくれるのかもしれない。

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